弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第一節 藩体制の動揺

三 乳井貢の登用と宝暦改革

(三)改革の諸政策とその展開

藩札の性格を持ち、通帳として使用された標符の形態はどのようなものだったのだろうか。最近、標符(通帳)と思われる唯一のものが小嶋家文書(弘前市船沢)の中から発見された。宝暦年間に大庄屋を勤めていた小嶋長兵衛家のものである(写真参照)。表紙に「宝暦七丁丑五月 諸品通」、表紙裏に「紙数廿二枚」とあり、袋とじの半紙に四行の罫線が引かれている。通帳の大きさは縦二三・五センチメートル、横一六・五センチメートル。二つ折りの部分に一丁ごとに「壱」から「二十」まで記載されており、表紙と裏表紙をあわせると二二枚(二二丁)となる。一枚目には運送役員数方の印が押され、この通帳の固有番号と考えられる「数百十六番」と、同じくこの通帳によって可能な商品との引き替え総を示す「銀壱貫目也」の記載がある。紙数の「廿二」と銀の「壱」の部分には、偽造を防ぐために墨書の上から印が押されている。「銀壱貫目」のこの通帳をもって品物の購入を行うことになるが、同通帳では五月二十五日に半紙と布が購入され、価格と購入先が記され、店の印も押されている。このほか日付はないが、酒を購入している。購入はこの三件だけであることから、この通帳は表紙にある宝暦七年(一七五七)五月分の通帳であり、毎月通帳が出されていたと考えることもできるが、標符の発行は同年七月一日をもって停止されることから、六月の使用がなかったとも考えられる。またこの時期は、後述するように標符による経済的混乱が大きく、あまり使用されなかったことから、三件だけなのかもしれない。これについては、この通帳の持ち主が誰なのかの記載がないということと、「数百十六番」が何を表しているのかが、今後、解の糸口になると思われる。なお、各購入先の商店では、該当する罫に割印を押している。各商家において販売台帳を作成していたものと考えられる。

図138.標符の表紙


図139.標符の表紙裏

 次に各史料に記載されている標符の形態についてみていくこととする。「秘苑」によれば「立紙経引」の帳面に、身分ごとに違った書き方となっている(資料近世1No.九四〇)。
① 何百石   何之誰
  俵ニ〆何百俵 代銀何貫何百匁       御運送役
         壱俵ニ付拾三匁ツヽ     御員数方
② 何拾何匁ハ  何屋某  但売物不顕
  町屋ハ無之標符、右は有米御蔵へ買上、一俵ニ付代銀拾三匁
③ 米何百何拾俵 何組何村某
  代銭之書様御家中之通、表書ニ標符と有、
 何組何十何番村          御運送役
                  御員数方

 ①は藩士、②は町人、③は百姓に対するものである。『平山日記』にも、各身分ごとにほぼ同様の形式が示されており、いずれも竪帳(たてちょう)で罫を引き、表書きに標符と書いてあるとしている。また、「徧覧日記」(同前No.九三七)によれば、知行取藩士俸禄(十一月から惣物成(そうものなりだか))は通帳で渡すこととしているが(十二月から切米取も同様)、その通帳は半紙を二つ折りにして、片面に四通(四行)ずつ墨で罫線を引き、表に標符と書き、中に、「米何石何斗何升何合、此代銀何百何拾何匁何分、御運送役判、御員数方判」と記載されているとしている。また、在方の者の標符は、米穀方に持参した米穀を銀に換算し、藩士の標符と同様に記すこととあり、三書ともほぼ同様の内容であるとしてよい。町民については、いずれも「無」の標符(通帳)となっている。

図140.標符の内容

 このほか、標符の形態として「小通」という標符が通用した。現存のものがないため、諸史料から想定するしかないが、小額の標符のことで、日々の「小」用として用いられたようである。「徧覧日記」(同前)によれば、「標符本通之外」として「小通」が挙げられている。「小通」は日々の小いのために員数方へ持参した標符を小札に切り分けたものという。寺社の初穂や布施、薬代、日雇銭の類を「切手形」で支払い、両替方で書き替えられた。標符から小通への切り替えは「銭六拾目之通ハ銭八分」とされた。
 「秘苑」(資料近世1No.九四〇)では、物資不足のために少しずつしか購入ができないことから、「切通帳(きりかよいちょう)」というのができたとし、それを日々の小いのために員数方へ持参すれば、そこで小札に切り分けられるのであるが、その切り分けられたものを小通ともいうとある。標符(通帳)を切り分けたのか、「切通帳」というのを切り分けたのか判然としないが、一枚ものの小札であることに違いはない。ただし『平山日記』に、小いにしたいときには、標符を切り替えに御員数方へ行けば、何匁何分と記した「横帳面の小冊」が員数方から出され、それをもって医者への薬代や諸職人への日雇銭の払い方にわす、とある。「横帳面の小冊」と「切通帳」とが同じものなのかどうかは不であるが、先の宝暦七年五月の「諸品通帳」(小嶋家文書)をみる限り、竪帳の標符(通帳)を切り分けて小札とすることは考えにくく、小札に切り分けるための横帳の切通帳があった可能性もある。これを「小通」といったのか、小札となったものを「小通」といったのかも含め、その形態は今後の解に待つべき点が多い。
 このほか「別段標符」というのが「封内事実秘苑」(資料近世1No.九四〇)にみえる。品不足や売り渋りで、通常の標符ではなかなか購入できない状況でも、この「別段標符」であれば商品を販売してくれるという。極めて価値のい信頼性のある標符であるが、詳細は不である。
 次に、標符の名称についてであるが、これまでみてきたところから、標符以外に「通帳」「諸品通帳」の呼称があり、通用の違いによって「小通」「切通帳」「別段標符」の使い分けがあった。「切手形」は形態からみた呼称と考えられる。
 「徧覧日記」では、知行取藩士に渡すのは「通帳」であるが、その表書きは「標符」であり、町・在の標符は「諸品通帳」を名目としていることが記されている。そして、宝暦六年(一七五六)十二月一日から切米取藩士知行取同様に標符で俸禄を受け取ることになったことから、この時に標符という名目は不都合であるとして通帳と改めたとある。「秘苑」には、藩士へは「諸品通帳」を渡しているが、その名目は「標符」であり、町民・農民のものも、表書きは「標符」だとある。そしてこれらは、同年十二月上旬ころから名目を「諸品通帳」に改められたと記されている。つまり、藩庁が設定したいわゆる標符機能を持つものを、総体として、また制度として呼ぶ場合は「標符」であり、同年十二月までは、竪帳の呼称も「標符」であり、表書きも「標符」と記されていた。そして十二月以降は「標符」の呼称は、制度的にも「通帳」となり、表書きには「諸品通」(もしくは「諸品通帳」か)と記されるようになったわけである。以後、法令等の公文書では「通帳」と記載され、その停止を申し付けた惣触においても「通帳相止候様申付候」とある(同前No.九四六)。「標符」の呼称は宝暦六年十月から同十二月中旬までの短期間だったのである。そして「通帳」の名称を基本として、「小通」や「切通帳」という名称が使用された。