弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第一節 藩体制の動揺

三 乳井貢の登用と宝暦改革

(三)改革の諸政策とその展開

藩は上方商人から大きな借金を抱えていたが、それが累積していく大きな要因として乳井貢御調方役所の認識にあったのは、江戸入用金上方からの送金によって賄われていたことであった。大坂廻米が始まって以来、蔵元(くらもと)との関係ができ、領内の金銀を上方(かみがた)に送って銭と替え、それを領内で通用させたことから、領内は銭(ぜにづか)いとなっている。つまり、江戸への送金も領内の銭遣い上方銀主を通して行われており、上方銀主に支払う手数料・両替料の出費が多い。そしてこのようなシステムに加え、現在上方銀主への借財は膨大になり、江戸への送金も差し支えている状況にある。これでは、ますます上方銀主への借金が膨らんでいく一方である、という認識である(資料近世1No.九〇六)。
 そこで藩は、江戸への上方仕送りをやめ、古来のとおり、国元から直接送金する方法「御国仕送」に切り替えるという方針転換を図った。そして、金銭の供出を領内の富裕な者たちに命じ、引き替えに当年秋の収納米を担保とした米切手を発行した。これによって江戸送金を賄おうとしたのである。ただし、そこには一つ問題があった。領内の通用貨幣は銭であり、金銀通用の江戸への送金のためには両替が必要となることから、両替の経費とともに、その手続きのために速やかな調達ができないという問題である。
 藩は、この問題を解決するため、領内の銭遣い銀遣いとする方針を固めた。「古来」津軽領では銀遣いであったが、先述のように上方廻米の開始によって上方銀主とのかかわりが深くなり、「中興」(四代藩主信政のころ)以来、銭六〇文を銀一匁とする相場を立てたことから、銭遣いとなっていた。しかし銭を匁で表示する仕方は、全国に例のないものであり、江戸送金や隣国との取引をはじめ、通貨の流通においても銀と銭の関係が紛らわしいものとなっていたのである。そこで宝暦四年(一七五四)九月一日から、小判一両を銀六〇匁、金一歩を銀一五匁として全国の相場に改めるとともに、銭は時々の変動相場とした。ただし、銭さしで九六文つないだものを百文として通用させる九六銭(くろくぜに)については従来どおりとした。また、弘前青森鰺ヶ沢に両替屋を置き、そこで金・銭と銀との両替を行わせるようにした(同前No.九一八)。また、これに先立つ三月には、小判の切賃(きりちん)(両替手数料)を一〇〇両につき銀三〇匁と定めている(同前No.九一二)。
 この政策の実施は、御用達町人らに命じた調査結果と、彼らの要望を大きく取り込んだものであるが、金銭の供出を富裕な者たちに命じたことをあわせ考えると、藩は経済政策推進において、商人の統制と利用を図っていったことがうかがわれる。既に、宝暦三年八月の御調方役所の設置に伴って、藩内の有力商人である足羽(あすわ)次郎三郎と竹内半左衛門調方御用取扱に任命し、従来の御用達町人をも調方役所の管轄下に置いている。そして同四年六月十日に足羽次郎三郎を惣御用達に任命し、同二十九日に御用達町人らを運送手伝に命じて、足羽を頂点とした商人の組織化を図り、商人を統制下に置いた(同前No.九一五・九一六)。銀遣いへの変更は、このような商人統制のもとになされたのである。
 そして、宝暦五年の大凶作に直面するに及んで、この通貨統制・商人統制はさらに、領内の金銭・物資およびその流通を全面的に統制下に置く強力な経済統制・金融統制の実施へと展開した。いわゆる「標符(通帳)」の発行である(以下の記述は長谷川成一「弘前藩における藩札の史料収集と研究」日本銀行金融研究所委託研究報告 一九九五年 による)。なお、標符発行にかかわる乳井貢の貨幣観や思想については、本節一を参照いただきたい。