弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第一節 藩体制の動揺

三 乳井貢の登用と宝暦改革

(一)乳井貢と改革の思想的背景

乳井がその学問形成にあたって直接誰から何を学んだか、その詳細は不である。しかし「志学幼弁」巻七の中の「聖人ヲ知ル者、異朝ニハ孟子・荘子ノ両氏ノミ。吾ガ朝ニハ素行子・徂徠子・太宰純ノ三子ノミ」との記述から、彼が共鳴した先行思想家や彼の目指した学問的背景は自ずと判する。孟子・荘子への関心については今はおき、山鹿素行(やまがそこう)(一六二二~八五)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(一六六六~一七二八)、太宰春台(だざいしゅんだい)(一六八〇~一七四七)の名を挙げていることから、朱子流の心性・心法論を嫌い、経世済民の学を志向していたことはらかである。なかでも、素行学からの影響が最も強い。素行の著作から多くを引用し、「吾が素行夫子」(「五蟲論」)といった言い回しをしていることは、彼が素行に私淑し、その学を信奉していたことを示している。

図137.志学幼弁 巻七
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 もともと津軽家と素行の関係には密接なものがあった。四代藩主津軽信政(一六四六~一七一〇)は十五歳の折り素行に入門し、以後素行が病没するまで師事し、弟の政朝(まさとも)(一六四八~一七〇五)と二人の息子信寿(のぶひさ)(五代藩主一六六九~一七四六)・資徳(すけのり)(一六七二~一七〇八)も入門した。また素行の長女亀の娘婿、岡八郎左衛門は延宝七年(一六七九)津軽家家臣となり、天和元年(一六八一)家老となって津軽大学と称して国政を預かり、代々その子孫は津軽家に仕え、津軽山鹿家本家となった。さらに素行の二女鶴は延宝六年(一六七八)藩士喜多村源八に嫁し、源八も天和元年に家老となった。加えて素行の門人磯谷十助が延宝五年に本藩に取り立てられたのをはじめ、素行門人が少なからず藩に召し抱えられた。そして素行の著『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』『武教要録(ぶきょうようろく)』『武教全書(ぶきょうぜんしょ)』は藩より出版されている。このような事実を考え合わせると、寛政八年(一七九六)の藩校稽古館(けいこかん)の創設に伴い、しばらくして朱子学が主流を占めてくるが、それまでは藩内において素行学の伝統が生きていたと思われる。乳井はこのような知的風土のもとで学問的素養を身につけていったのである。
 素行学の乳井への影響には決定的なものがあるが、それとともに荻生徂徠の思想からの影響も決して無視できない。商品経済機への積極的な対応など、具体的な経世策においては、徂徠の弟、太宰春台の経世思想の延長上にある。そして乳井の思想を理解するうえで今一つ注目すべき点は、乳井の老荘思想への好意的な評価である。春台、そして徂徠の孫弟子に当たり経世思想を一層先鋭化して発展させていった海保青陵(かいほせいりょう)(一七五五~一八一七)も、ともに老荘思想に同調共鳴し、特に後者は老荘思想を実にユニークに読解し、自らの思想体系の中にこれを組み込んだが、乳井も、青陵を連想させるような独自の老荘解釈を施している。これ以外にも思想史上からみた場合、乳井の思想には春台と青陵との中間に位置づけることができる面がある。加えて、直接に「天地を師とし」て、経典墨守的態度を乗り越えていこうとする点において、安藤昌益富永仲基(とみながなかもと)、三浦梅園山片蟠桃(やまかたばんとう)、海保青陵といった十八世紀の開的な思想家たちと通底する精神を乳井は持ち合わせていた。