弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第一節 藩体制の動揺

三 乳井貢の登用と宝暦改革

(一)乳井貢と改革の思想的背景

勘定奉行乳井貢(にゅういみつぎ)は宝暦期の藩政を主導し、改革を断行していった。乳井貢は正徳二年(一七一二)に生まれ、幼名を弥三左衛門と呼んだ。「幼年の時より世事かしこく、才智にして多芸」(「高岡記」『伝類』)であったという。享保二十年(一七三五)六代藩主津軽信著(のぶあき)に奉公見習として仕え、手廻五番組に任じられ、翌元文元年(一七三六)に父儀右衛門の家督五〇石を相続し、小姓組三番組を仰せ付けられ、この年、市郎左衛門と名を改めた。その後、七代藩主信寧(のぶやす)の代となり、延享元年(一七四四)膳番、同二年小納役、寛延二年(一七四九)近習小姓と奥向(おくむき)を勤め、宝暦元年(一七五一)「長病ニ付」御役御免を願い出て職を辞したが、翌年の宝暦二年(一七五二)には「病気全快ニ付」御役復帰を願い出て、三月には手廻五番組、八月には寄合、翌年の一月十五日に勘定奉行となった。
 乳井の勘定奉行登用の経緯は「高岡記」(『伝類』)によれば次のようである。寛延二年の凶作で領内は飢饉に見舞われ、藩財政は完全に行き詰まっていた。当時の藩の累積借財は藩の年間総収入の二倍にも及んでいた。乳井は家老に、人民困窮の救済について「御沙汰有度事」と願い出たところ、家老の回答には、すでに万策尽きている、なにか思案があれば申し出せ、とのことであった。そこで乳井は、自分の策が用いられれば「一国の富有今年の内にあり」と進言したところ、家老から「汝か存念一はいに勤むへし」とすぐに勘定奉行任命の下命があった、という。乳井の残した数多くの著述は、この進言が単なる功名心、社会的栄達への野心ということのみにとどまらない、武門に生まれたものとしての社会的使命なり責務なりの感情と、論理に支えられていたことを物語っている。
 勘定奉行に就任するや、思い切った財政改革を断行し、当初めざましい成果を挙げた。また凶作に対しても応変果断の処置をもってし、一、二の史料の伝えるところによると、世にいう「宝五(ほうご)の凶作」、すなわち宝暦五年(一七五五)、奥羽地方一帯を襲った大飢饉においても、津軽領内からは餓死者がまったく出なかった、という。
 宝暦六年(一七五六)、この年も凶作が続いたが、年貢徴収に功あって藩主信寧より「貢(みつぎ)」の名を「いく年も 四季の間 絶へぬ貢かな」の発句に添えて賜っている(『伝類』)。そして翌七年には家老席に列し一〇〇〇石を賜り、栄達を極めた。
 乳井の一連の改革は多方面にわたるが、最も知られているのは「標符(ひょうふ)」を発行して、領内の経済を統制していこうとしたことである。これは「徂徠(そらい)之学風ヲ好」んだという御用達町人足羽(あすわ)長十郎の献策によるもので(資料近世1No.九五六)、一商家一家業とし、いったん物資を上納させた上で家業別に再分配し、これを標符でもって売買させるという施策であった。この施策が、領内を経済的混乱に陥れて庶民の恨みを招き、彼を失脚へと導いていった。
 宝暦八年(一七五八)、乳井は急転するドラマのように失脚に追い込まれた。知行・家屋敷を召し上げられ、一〇年間の謹慎処分を命じられる。「標符」の発行が領民の不満を招いたことのほかに、彼の改革があまりに急進的であったために多くの敵対者を作り出し、彼らの恨みを買ったことも失脚に大きくあずかっていた。謹慎中に彼は『志学幼弁(しがくようべん)』一〇巻を著しているが、ここには人間と社会の在り方についての一貫した哲学が語られている。

図135.乳井貢画像

 安永七年(一七七八)、乳井は再度勘定奉行を仰せ付けられ、胸中深く計策を秘して臨むものの、今度も周の抵抗に遭い、二年後には再び蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、川原平(かわらたい)村(現中津軽郡西目屋村)に幽閉された。流謫(るたく)地で乳井は土地の人々に水田耕作を教え、村人はそこで初めて米を食することを知ったという。次の史料は乳井が士分の身でありながら、農業土木の実際に携わり、その方面の知識や経験が豊富であったことをうかがわせる。
貢つらつら山谷の模様を実見し、一の山を穿(うが)ち通して、用水を導き、是より数町之田地を開き、村人初て耕転し米を食する事を得たり、此用水を長く引て隣砂子瀬(すなこせ)村にも田地を開墾せり。(『伝類』)

 さらには漢学や算数を教え、村に文化をもたらした。
此の村中男女一文字をだに知るものなかりしが、貢が蟄居中弟子多く出来、漢学・算術に熟達するもの数人出て、是より人倫の道を知るもの多し(同前)

 それゆえ、村中の老若男女が「手足の如くなつき、父母の如く慕」った、という。村人たちに映った乳井の姿はまさしく、徂徠学で言うところの禽獣段階にあった人間社会に文化をもたらした、「聖人」のイメージを彷彿とさせる。それは朱子学で説くところの道徳の体現者としての聖人とは決定的にかけ離れている。

図136.西目屋村川原平の乳井貢顕彰碑

 天四年(一七八四)に乳井は許され、その後弘前城下塩分町に閑居して余生を「専ら詩文俳諧を楽しみ、傍ら数学を講して」(同前)、その生涯を終えた。
 彼は『志学幼弁』一〇巻をはじめとして、農学・土木学・算学等々の経世致用に関する実学的な著述を多く残している。中でも、冷害に襲われやすい津軽領内の気候・風土に鑑みて、水稲の代わりに陸稲の栽培を強く奨励した「陸稲記(りくとうき)」は注目される。また、改革に失敗し罪人の烙印を押された晩年の複雑な胸中を、滑稽な形で吐露した戯作として「深山惣次(みやまそうじ)」五巻がある(資料近世1No.一〇〇八)。