弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第一節 藩体制の動揺

一 宝暦・天明期の飢饉と農村

(一)宝暦の飢饉

宝暦の飢饉では、民間からも飢饉に対する経済対策を提案する者が現れた。勧農家として知られる芦萢(あしやち)村(現鰺ヶ沢町)の庄屋権四郎は、山がちな自分の村の特色を生かして、真綿の栽培と販売による米の購入を考え、真綿不足の村民のための資金として米穀の払い下げを申請し、認められている。権四郎の凶荒対策は凶作の際も米穀のほかに産物があればしのげるとして、山川海陸の産物を育成するよう、藩の触れが出るきっかけとなったという(資料近世2No.六)。水田単作地帯の津軽領は、冷害で稲が被害を受けると経済的な被害が甚大になるので、米穀以外の産業の育成は重要な課題であった。時代は宝暦からやや下るが、安永三年(一七七四)十二月に郡奉行樋口弥三郎凶作の対策として、空き地などへの四木(桑・楮・茶)の栽培を奨励し、「菜種油・紅花・藍・麻其外薬草の類」など、その地に見合ったものを植えていくよう、布達した(『平山日記』安永三年条)。
 翌安永四年、樋口は領内を巡見し、産物の植樹に優れている者を表彰した。これに伴い各組で七、八人ずつ「産物取扱役」が任命され、主として豪農層がその任に当たった。この役職は・楮・栗・クルミなどの苗木を用意し、その植え付けを推進し、また藩の奨励する畑作物の栽培について、村を巡回して指導する役目であった。さらに各村には産物方を補佐する下役が置かれた。これに先立つ和八年(一七七一)には、古くからの産物であるも栽培の奨励が行われ、木を栽培する百姓には「自分木」として事実上の私有を認め、生産した水実のうち二〇パーセントを藩に上納させ、残りを藩が公定価格で買い上げるという制度改革を行った。
 新しい農作物の栽培については領内のみならず、全国から専門家を招聘(しょうへい)し、指導に当たらせた。たとえば、阿波(あわ)の六兵衛は藍の栽培、米沢の武助は苧(カラムシ)の糸取り法、加賀の清三郎は綿の栽培を、江戸医者の橋昌元は薬草、「近江の者」は生姜の栽培、というように多岐にわたり、そのほか、製塩・真珠の養殖など様々な産物の導入が試みられた。
 これらの産物の導入はどれほどの成果があったのだろうか。『平山日記』の筆者はかかる新産物を挙げたあと、彼ら専門家に対して「色々な産物を藩に売りこんだが、藩のためと称して、自分のためにする曲者(くせもの)であったからいずれも成功しなかった。弥三郎殿自身は無欲の人物だったが、このような者にたぶらかされ、責を受けた。」と、非常に手厳しい評価をしてある。在方には慣れない新作物導入に対する不満が根底にあったと思われる。理念はともかくとして実際には特記するような産物は生まれず、次の天飢饉に生かされることはなかった。その上皮肉なことに、樋口の産物導入のため、安永初年から行われてきた貯米の大半が流用され、飢饉の備えの役を果たさなかったと非難されている(『天明卯辰日記』)。藩が再び産業振興策をとるのは、天飢饉の復興も進んだ文化年間以降のことである。