新編弘前市史 通史編2(近世1)
第3章 幕藩体制の確立
第五節 弘前城下の発展
二 商品流通の発展と城下の変容
慶安二年(一六四九)五月の寺町大火直後の弘前城下を描写したものであるという「弘前古御絵図」から、城下の商人や町方について次のような情報を得ることができる(長谷川成一「慶安二年頃「弘前古御絵図」(弘前図書館蔵)―若干の解説と復元―」『文化における「北」』一九八九年 弘前大学人文学部人文学科特定研究事務局、同「北奥羽近世都市の諸問題―都市絵図を用いて―」『地方史研究』二二一)。まず、屋号にみえる地名からは(表30)、
①日本海沿岸地域、なかでも越中を除き出羽から若狭・丹波までの地名の屋号が際だって多く、因幡など山陰地方の地名はみえない。東北地方の地名を冠する屋号は、秋田が最も多く、会津若松・仙台・最上などがこれに続き、南部屋は一軒であった。また、蝦夷地の地名はみえない。 ⑥広域地名では、大和・関東・瀬戸がある。 といった傾向をみることができる(長谷川前掲「北奥羽近世都市の諸問題―都市絵図を用いて―」)。
![]() 図121.弘前古御絵図にみえる屋号のある商家(網かけ部分) ![]() 図122.慶安期の町割りと町名 屋号と商人の出身地とが密接な関係にあることは、広く認められるところであり、これによれば、十七世紀の中ごろに弘前城下に居住していた町人層の多くは、西廻り海運の航路に沿った地域の関係者であることがわかる。そして、これらの地名は、越前・若狭・加賀などの各湊津に物資を揚げ、琵琶湖を経由して京・大坂へと通じる輸送路(まだ馬関(下関)を経由しない)に属している。また、大坂・京・近江・加賀など、西廻り海運に関係する地名の屋号が、東北地方を地名を冠する屋号よりも圧倒的に多かったのは、上方商人の進出する上方経済圏との結びつきが、より緊密であったことを示している。 これに対して、太平洋沿岸の地域の地名を冠する屋号が少ないにもかかわらず、関東地方、なかでも、江戸を屋号としている町人が比較的多いのは、参勤交代制の定着によって、弘前と江戸とがしだいに関係を深めつつあったことを示唆する。 次に、職人集団であるが、職人町として、紺屋(こんや)町・鞘師(さやし)町・鍛冶町・大工町・銅屋(どうや)町・畳屋町の町名が確認される。ほかに、桶屋・木引(こびき)・檜物(ひもの)屋などの稼業、座頭町・博労町もあり、約三〇種類の稼業が記されている。稼業の名前がそのまま町名となっている町に、職人が集住していることはいうまでもなく、桶屋など町名となっていない稼業は、いまだ職人が集住するようになってはおらず、各町に散らばって居住していたことがわかる。また、藩庁の御用職人もしくは御用役職人の稼業には、「御かうやくみかしら」「御鉄ほう屋」などのように、「御」が付されていた。鉄砲屋頭を務めた国友氏は、御扶持人と記され、この時点では城下に鉄砲町は町割りされていない。 こうした、職人集団の出自をその由緒書からたどってみると、津軽出身者以外では、秋田・加賀・近江・山城・和泉・江戸といった地域を拾うことができ、その大部分は畿内先進技術地帯の出身者によって占められている。しかも、多くは為信の代に召し抱えられたという。つまり、彼らによって職人集団の礎が築かれたということができよう。藩政成立期、先進技術の導入に際して、まずは上方方面から技術者を招致し、その後十七世紀の前半、津軽出身の小知行(こちぎょう)を勤めていた人々などにその技術を継承させ、技術者の育成に取りかかっていたようである。 |