弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第3章 幕藩体制の確立

第四節 信政以後の政治動向

二 「津軽一統志」の編纂

津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに津軽為信という実在した人物の業績さえ、津軽側の史料と南部側の史料の食い違いという実例からもわかるように、確実な材料を用いてらかにすることは困難である。
 津軽家は、南部氏の庶流であるにもかかわらず、近衛家と縁戚関係にあると称した。津軽信政の弟である可足権僧正(かそくごんのそうじょう)が津軽家に伝わる「御家古代ノ事実ヲ略記」した「可足権僧正筆記」を、近世後期にまとめた「前代歴譜(ぜんだいれきふ)」(陽文庫蔵)には、藤原秀栄(ひでひさ)から四代目の頼秀が近衛家の始祖である近衛基通の女をめとり、藤原氏本流との縁戚関係を有したこと、八代から一〇代までは南部家との縁戚関係を有したことなどが記されている。これらのことは事実とはとうていみなしえない。また津軽信政の自筆による「津軽家譜草案」(弘図古)の系図では、始祖を金沢家光(かなざわいえみつ)とし、家光以降の各人に氏姓が肩書きされている。それによれば、家光―家信―光信(みつのぶ)―盛信は源氏、政信―為則(ためのり)―守信―為信は藤原氏とされている。天正十七年(一五八九)十二月二十四日付の豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.三)の宛先では為信を「南部右京亮」としており、津軽家南部家の支流であったとみてよかろう。しかし、十七世紀では、藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(き)り取りと自立の歴史を為信より前の出来事として、その意識を確にしたのであった。
 天和三年(一六八三)十一月二十五日、幕府は諸大名に対して、三河以来の徳川家のことを記した書籍や家々の記録があれば提出するよう命じた。翌貞享元年(一六八四)正月には、家臣のものも含めて、将軍から与えられた感状・書状・褒美の品など、先祖に与えられた経緯を記して提出するよう命じた(『御触書寛保集成』六九六号 一九三四年 岩波書店刊)。これは、家康の事績をまとめた「武徳大成記(ぶとくたいせいき)」編纂のための史料収集の試みであり、この時諸家から差し出された書上を「貞享書上(じょうきょうかきあげ)」と呼び、後に「譜牒余録」としてまとめられた(一九七四年に『内閣文庫影印叢刊 譜牒余録』として影印本が刊行されている)。
 幕府の命に対し、津軽弘前藩は、藩主信政名で貞享元年二月七日、津軽家には先祖が徳川家から発給された文書がまったく存在せず、在府の家臣飯田覚兵衛の家に伝えられた文書があるのでその写を進上すると具申した(「譜牒余録」四九)。この飯田が所蔵していた文書には、津軽家にかかわるものは一点もない。ところが、現在津軽家文書として伝わっているものの中には、家康・秀忠の発給文書が六通存在する(その内一通は購入したもの。その経緯は後に述べる)。このような事態が生じたのは、津軽家系図成立に関連があるのではないかと考えられている(長谷川前掲「津軽藩政文書の基礎的研究(一)」)。
 幕府が津軽家近衛家の縁を初めて公式に認定したのは、寛永十八年(一六四一)に編纂が命じられた『寛永諸家系図伝』の編纂に際してである。津軽家系図を幕府に提出する際に、近衛家に自家の筋目を保証して欲しいと依頼した(資料近世1No.六二九)。これに対して近衛家の当主で前関白近衛信尋は、津軽家系図近衛前久の筆によること、そして津軽家の祖大浦政信近衛尚通(ひさみち)の猶子(ゆうし)であることを認める書状を津軽信義に宛てて下している(同前No.六三四、なお第二章第一節参照)。この結果、津軽家は自家の先祖を近衛家とする根拠を得、幕府も津軽家が提出した系図を認めたので、津軽家系図上も南部家からの独立を果たすことになった。
 ちなみに、幕府が『寛永諸家系図伝』の修正増補として『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』を編纂した際にも、津軽家近衛家から認証を受けたうえで、幕府に系図・系譜を提出した。ところが、系図に疑義を挟まれた。問題とされたのは、まず「津軽」という家名を称するようになった時点、そして近衛家との関係である。津軽家では為信の代から「津軽」姓を称したもので、それ以前は代々金沢・大浦を称したこと、そして政信が近衛尚通猶子となったことを申告した。幕府は、政信についてよほど気になったらしく、再び回答を要求し、その結果、津軽家側は、政信を「尚通公猶子」から「尚通公庶子」と訂正して届け出て認められた。
 「貞享書上」は、徳川家の発給文書が対象となるという通達であったが、家によっては、織田信長豊臣秀吉などから発給された文書を詳細に書き上げた例もあった。そのような事例にのっとれば、為信のことを「南部右京亮」と記した秀吉の朱印状は、幕府から公式に南部家と無縁であると認められていた当時、提出するには都合の悪いものであった。また、疑義が挟まれた場合、近衛家にも波及する問題となる可能性があった(後述する近衛家津軽信政が差し出した「津軽古文書」にも、為信を「南部右京亮」とした文書は含まれていない。近衛家との関係でも、南部家との関係をらかにするようなことはタブーであった)。結果として、津軽家は、自家の秘密を守るために、幕府の命令を婉曲に拒絶する格好をとったことになる。