弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第3章 幕藩体制の確立

第四節 信政以後の政治動向

一 信寿・信著・信寧の三代藩政の動向

宝永期の藩政において、天和・貞享期以来郡・勘定方を掌握し、藩主信政の意向を受けて諸政策を展開してきた「出頭人」グループと、それを批判する譜代・下士層の間に政治的対立が生まれたことはすでに述べたが、信政の死去・信寿の家督相続を契機に、この対立の動きに変化がみえだした。
 まず、同年十二月十九日に先に閉門となっていた元家老瀧川統伴(むねとも)・大湯五左衛門以下が許された(本章第一節四参照)。正徳元年(一七一一)二月十二日には藩士知行米を月割支給して当面の困窮を収拾し、八月二十六日には藩士窮乏を理由に拝借・町借返済を延期、知行六ツ成に戻した。さらに「両浜沖替」の役銭を半減することで、宝永七年(一六七九)の「御用立」米・金を返済した。
 さらに、郡方・勘定方中心の「出頭人」グループの中心であった勘定奉行武田定清は、正徳二年正月、金策に赴いていた上方から帰国したところ免職され(『伝類』)、さらに二月十二日には信政時代の失政と上方での勤め向きの不首尾を理由に切腹を命じられた(「国日記」正徳二年二月十二日条)。さらには同年八月、藩士蔵米知行制が、再び旧来の地方知行制へと転換した。

図110.武田源左衛門定清の墓碑

 この政治過程をみると、宝永期に桜庭太郎左衛門が三通の建白書で述べた(本章第一節参照)譜代家臣層の政治的要求を受け入れたといえる。したがってこの時期の藩政は、彼らを支配層内の支持者としていたといえる。すなわちそれは信政晩年の藩政の否定であり、信政の出頭人政治の否定ともみられる。代わって、藩政中枢には門閥層が任命され、さらに、元禄九年(一六九六)に飢饉を理由に召し放たれた家臣の一部が、享保十年(一七二五)に召し出され、その前年には譜代家臣の中核であった「八拾三騎」の子孫で没落・浪人した二七人を「馬廻格」として再登用した。こういった点から、信寿は、門閥・譜代層を基礎として藩政を展開しようとしたと考えられる(浪川健治「藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩における異民族支配と『北狄の押へ』論―」『日本史研究』二三七)。
 一方で信寿は、藩士の生活の基本となる主要法令を二度にわたり発布し、家臣団統制に取り組もうとしている。はじめのものは正徳元年(一七一一)八月二十六日、江戸において出した一一ヵ条の法度(「国日記」正徳元年八月二十六日条)、次いで享保十五年(一七三〇)九月十五日に出された五ヵ条の法度(『御用格』)である。前者は元禄の大飢饉以後の財政悪化を背景として、分相応の衣食住、軍役遂行のための武具・馬具の所有などを藩士に求めたものである。一方後者は、公儀の定法遵守、文武奨励、礼の重視、異風の身なりの禁止、職務精励等、藩士としての心えを定めたものであり、藩主信寿が隠居を前に家中の動揺を防ぐため、家臣としての心えを再確認する意味で発布がなされたと考えられる。この二つの法度は、先に先代信政によって出された寛文元年(一六六一)の一一ヵ条の諸法度、翌年に「家訓条々」として出された一七ヵ条の法度の内容を簡略化、または趣旨を再確認したものといえよう(黒瀧十二郎『弘前藩政の諸問題』一九九七年 北方新社刊)。これらの動きは動揺した家臣団の収拾を図り、藩政の動揺をも止めようとしたものだったのであろう。