弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第3章 幕藩体制の確立

第一節 確立期における藩政の動向

四 元禄九年の家臣召し放ちと支配機構の再編

弘前城内には当初家中(藩士)の屋敷が存在した。そのころの様子は、元禄時代以前の弘前城や城下を描いた絵図によって、ほぼ知ることができる(ここで言及する絵図は、特に断らない限り弘前市立図書館蔵である)。
 寛永末年ころ作成されたとみられる「津軽弘前城之絵図」によれば、城内は本丸内北の郭西の郭を除いては「侍屋敷」または「侍町」と記載され、二の丸に六軒、三の丸に六九軒、四の郭には四九軒、西坂下の西外の郭には三六軒の屋敷が配置されていた。また、幕府が諸大名に作成・提出を命じた、いわゆる「正保城絵図」のうち、津軽家が差し出した「津軽弘前城之絵図」(国立公文書館内閣文庫蔵)においても、二の丸に六軒の侍屋敷が区割りされ、三の丸四の郭西外の郭はほぼ侍屋敷となっている。
 慶安二年(一六四九)ころのものと推定されている「弘前古御絵図」(弘図津、資料近世1付図)によれば、二の丸には侍屋敷が五区画屋敷割りされていたが、杉山吉成の屋敷以外は空き屋敷であった。三の丸には侍屋敷は六九軒(うち空き屋敷一四軒)、四の郭には侍屋敷四八軒(うち空き屋九軒)、西外の郭には三六軒(うち空き屋敷七軒)が置かれ、藩の施設である御蔵(二の丸)や御鷹部屋(三の丸四の郭)、御馬屋(西外の郭)、星場(ほしば)(四の郭)、塩硝(えんしょう)小屋(四の郭)、材木場(西外の郭)などと混在していた(この絵図については、長谷川成一「慶安二年頃『弘前古御絵図』(弘前図書館蔵)―若干の解脱と復元―」『弘前大学人文学部特定研究報告書 文化における北』一九八九年参照)。
 万治二年(一六五九)の「津軽弘前古絵図」では、慶安の絵図と比べると二の丸にあった蔵屋敷二軒の箇所が空欄になっている。二の丸内の屋敷は二軒(杉山家・白取家)を除いて空き屋敷(五軒)となっている。三の丸では二軒増の七一軒(うち空き屋敷三軒)、四の郭では三軒増の五一軒(うち空き屋敷一軒)となっていて、屋敷数が増加している。また三の丸四の郭にあった御鷹部屋四の郭にあった星場は、それぞれ家中の屋敷地に変わった。御鷹部屋四の郭の西隅に新たに設けられたことで施設の一本化が図られ、その余剰地が家中屋敷地となったのであろう。さらに西外の郭には、従来からあった御馬屋の側に馬場が設けられ、屋敷数は六軒減の三〇軒(うち空き屋敷一軒)となっている。
 この状況は延宝四年(一六七六)に作成された「御本丸・二・三・四之御郭図」の段階でもあまり変化がなく、二の丸には四軒の屋敷と空き屋敷が三軒あり、三の丸は六七区画の屋敷割のうち「御評定場」や「御客屋敷」いった藩政執行や賓客(ひんきゃく)用の施設もあるものの、ほとんどが家中屋敷で占められ、四の郭には五一区画の屋敷割があり、うち御鷹部屋、御普請場を除いては家中屋敷である。西外の郭は三五区画の屋敷割のうち、空き屋敷二軒、馬屋・御紙漉所やそれらの附属施設を除けば侍屋敷で占められている。
 これらの侍屋敷を、藩主権力が確立するにつれて外へ移転させ、城内を藩政遂行にかかわる建物のみにする動きが出てきた。天和三年(一六八三)三月、城内四の郭(北の郭)、北門(亀甲門)付近の棟方作左衛門邸など七つの屋敷が御用地として召し上げられ、屋敷を召し上げられた人々は郭外へと移転した。その後も御用地として屋敷が召し上げられた家臣が郭外に移転する例があったが、本格的な移転は元禄八年(一六九五)正月を手始めに、翌九年から十二年にかけて行われた。
 この時期の様子を示しているのが、元禄十一年(一六九八)改訂された「弘前惣御絵図」である。この絵図の城郭内の様子は、これまでと大きく異なっている。二の丸に住居する家中は既におらず、空き屋敷が一つ、御用地の付箋のある屋敷地が一つ、そして蔵屋敷馬屋馬場が設けられている。三の丸では屋敷割が一六区画のみとなり、その内空き屋敷は六軒を数え、家中屋敷大手門近辺と東門北側に六軒が残るのみとなった。四の郭にあった家中屋敷はこの時点までにすべて取り払われている。この時点で城内に残った屋敷も、宝永二年(一七〇五)三月から大手門外と外東門外に移転され、これをもって家中屋敷郭外移転が完了した。

図96.家中屋敷郭外移転前後の「弘前惣御絵図

 屋敷替えが可能になった背景には、先にみた家臣の大量召し放ちがあるとされる。城下の侍町には召し放ちによって多くの空き屋敷が生じた。郭内から移転する家臣はこれらの侍町へ移され、新たに侍町町割りが行われた。また従来侍町に住んでいた家臣徒衆町人も他の町に移転したりするなど、大がかりな住み替えが行われたという。
 移転の結果、城内の家中屋敷跡には、二の郭御屋敷土蔵宝蔵など、三の郭には御館・評定所・山方払方籾蔵板蔵紙蔵与力番所四の郭には作事方・鷹部屋が置かれ、弘前城の持つ役割が城主の居館や藩政執行のための施設として確化したといえる。また城下では大浦町・銀町・蔵人町(現蔵主町)・座頭町(現長坂町)・八幡町(現笹森町)のように従来町人町だった町が武家町に変化したり、田代町・植田町・緑町・柳町・品川町のように新しく町割がされた例もあり、結果として城下の拡大や変容につながった(『青森県の地名』)。