弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第3章 幕藩体制の確立

第一節 確立期における藩政の動向

二 越後高田領検地と領内統一検地

領内総検地である「貞享検地(じょうきょうけんち)」は、高田領検地の翌年、貞享元年(一六八四)から実施され、同四年(一六八七)五月に検地水帳が完成したことで完了した。詳細については別項に譲るが、ここでは高田領検地と貞享検地の間に存在する関連性について触れる。
 「貞享検地」のおもだった役人は、高田領検地の派役人、ないし高田領検地と何らかのかかわりを有する者であり、「貞享検地」が高田検地に派された役人たちによって実施されたという側面を持っていることはらかである。具体的にみていくと、惣奉行大道寺繁清間宮勝守であり、大道寺は高田検地の惣奉行、間宮は元締めであった。元締め二人のうち、田口維章(これあき)は高田領検地では検地奉行であり、武田定清は天和年間の領内検地においては検地奉行三人のうちの一人であり、高田領検地が下命されると領内検地を中止して城下弘前へ戻るよう命じられ、派要員とされた(実際には派されなかった)。検地奉行太田茂左衛門今次兵衛は、高田検地にはともに竿奉行として国元から派された。また竿奉行一〇人のうち六人が、高田検地竿奉行その他二人も検地役人としてそれぞれ派されている。
 また、検地役人の体制面からみると、寛文~天和期(一六六一~一六八三)の津軽領検地では、比較的小規模な編成だったのに対し、「貞享検地」にみられるような惣奉行元締め検地奉行目付竿奉行等といった検地役人の組織体制を作って領内総検地を実施するという方法は、高田領検地の影響が如実に現れているものであるといってよい。
 このような検地役人の共通性のほかにも、高田領検地と「貞享検地」の関連性をうかがわせる事例としては、「貞享検地」の間数の基準値が、幕領検地の基準と同じ一間=六尺一寸の間竿と、一反=三百歩という田積を用いていること(資料近世1No.一一六一解説)、「貞享検地」でも検地竿高田領検地で用いられた「なよ竹」などを用いていること(「国日記」貞享元年四月八日条)などがみられ、幕領検地の経験で得た方式が領内検地に導入されている。
表16 御竿奉行勤方覚書(天和4年3年月12日)の内容
項           目備   考
1田位付之義
2田畑位付之義
3検地之時分御竿延縮無之様随分念を入御竿取にも可下知事附あり
4屋舗四壁引之事
5御仮屋屋舗御番所屋舗之事
6町屋敷地子屋敷寺屋敷除地屋敷之事但書あり
7庄屋屋舗之内ニ小蔵有之事
8御蔵屋舗之事
9堂地社地之事但書あり
10畔引井寸尺用捨之事但書あり
11田地畔引之事
12畑を田に願候事
13田を畑に願候事
14杉松楮こかい桐新田畑之事
15川端に有之田畑之事但書あり
16山畑之事
17給地割入打分之事
18川原田畑に願候事
19御鳥屋場之内畑有之事
20藪之内畑有之事
21稲上ヶ場之事
22堰合に作毛仕付候事
23新堰新道足道新江溝新溜池水除之土手下新さんまい原井足地之事但書あり(案紙4例)
24空地之事
25座頭其外村中介扴抱にて住所仕候者之事但書あり
26切替畑之事
27田畑共に他村へ入込候事
28村境論井論地之事
29小帳はつれ之事
30古川御鷹場之事
31川端堰端之事
32百姓合帳之事
33下札井打印之事
34悪地にて下々田にも釣合不申田之事
35畑位付之事但書あり(活字本は34条にこの条を含む)
36御竿先にて給人上ヶ地之事
37桑楮桐杉松古畑之内に有之事
38永荒場井川欠山崩其外田畑に可罷成所之事
39其村検地前に絵図引合致見分大概を究田畑位付相違無之様可致御検地全文
40御蔵給人地寺社領入組之所は双方之百姓立合せ検地可仕給人之家来出申候はゝ猶以之事に候間立合セ可申事全文
41山盛林池堤町沼潟萢浜鳥屋場藪牧右之品々可致検地但書あり

 次に、支配機の面からみると、一〇人の竿奉行は、本来の役職が高田領検地の場合に比べて役格のい者が多い。高田領検地の場合、竿奉行手廻組馬廻組に属する藩士が務めることが多かった。限られた短期間に検地を実施したために役職等の異動もみられなかった。これに対して貞享検地の場合(「国日記」貞享元年十二月二十一日条)、検地役人の本来の役職に異動がみられる。他に史料がなく断定はできないが、貞享検地の場合、支配機上の役職に異動があったとしても、地方功者の能力を優先させて、検地の担当者の任からは外さなかったということができるのではないだろうか。
 もう一つ、たとえば検地奉行太田茂左衛門が任じられた馬廻番頭の支配機上の序列は、竿奉行の田村・対馬の役職である勘定奉行郡奉行よりは下の地位である。つまり支配機内の役職とその役職に付随する職掌は一応決まっているものの、事業によっては個人の持つ能力を優先した人事・人材の活用が図られていたということができるのではないであろうか。