新編弘前市史 通史編2(近世1)
第3章 幕藩体制の確立
第一節 確立期における藩政の動向
二 越後高田領検地と領内統一検地
天和二年(一六八二)三月十九日、津軽弘前藩江戸留守居役は老中阿部正武より越後高田領の検地を命じる老中連署奉書を受領した(資料近世1No.八四二)。
越後高田領は、親藩(越前家)の有力大名松平光長(みつなが)の領するところであったが、相続問題が発展して御家騒動となり(越後騒動(えちごそうどう))、家綱政権下において、大老酒井忠清、老中稲葉正則・久世広之らの主導でいったん裁定が下ったものの、綱吉政権下で再び審理が命じられ、最終的に綱吉の親裁によって裁定が覆り、さらに高田藩松平家そのものが取りつぶされたのである。高田領は幕領に編入され、それに伴って検地が実施されることになった。 この検地は、津軽信政の他に、信濃(しなの)国松代(まつしろ)(現長野県長野市松代町)藩主真田幸道(さなだゆきみち)、同国飯山(いいやま)(現長野県飯山市)藩主松平忠倶(まつだいらただとも)、同国高島(たかしま)(現長野県諏訪市)藩主諏訪忠晴(すわただはる)、同国小諸(こもろ)(現長野県小諸市)藩主西尾忠成(にしおただなり)という近隣諸大名に命じられた。このうち西尾忠成は、同年三月九日に小諸から遠江横須賀に転封になった(『新訂増補国史大系 徳川実紀』第五篇 吉川弘文館刊)ため、課役が免除された(「国日記」天和二年四月九日条)。津軽家を除けば役が課されたのは近隣の諸大名であった。 命を受けた直後から津軽家江戸屋敷では早速おもだった大名に対して事情を聞き合わせるとともに、幕府勘定組頭佐野正周に諸事の指示を仰いだ(「江戸日記」天和二年三月二十日条)。三月二十一日には用人間宮勝守を元締めとする検地派遣役人を決定し(同前)、惣奉行に大道寺繁清(しげきよ)を任じた。三月二十八日には、江戸から派遣される役人として、惣奉行一人、元締め二人、検地奉行二人、目付一人などの人数が定められている(「越後高田領御検地ニ付役之覚」弘図古)。また、家老津軽政朝・津軽政実・津軽政広三人の連名で国元の城代渡辺政敏に宛てた書状(三月晦日付)で、高田へ派遣する役人のうち、竿奉行・勘定之者・物書などが不足しており、検地を滞らせないために国元で役人を選ぶよう伝え、翌日付の書状で、竿奉行(手廻・馬廻両組の地方巧者(じかたこうしゃ)で、代官経験者かもしくは検地業務の経験者)、算用者二〇人(勘定の者の中でも算用達者で、掛算引算の巧者)、郷足軽(雨具持)二〇人、物書二〇人(中小姓、歩行、足軽、町人・百姓、家中の子息でもよい)、竿打二〇人(大組・小組足軽の内から)などと、それぞれの役に求められる要件を伝え、その役にふさわしい人材を選び出し派遣するよう求めている。 ![]() 図90.越後高田領検地拝命を伝える書状の写し 目録を見る 精細画像で見る 二十四日には幕府目付高木守勝より検地条目と越後知行高書付一通を手渡され(「江戸日記」天和二年三月二十四日条)、さらに勘定組頭佐野から「検地請取分郡高御帳」を渡された(同前天和二年三月二十八日条)。津軽家が担当する検地受持分は、高田領二四万石のうち刈羽(かりわ)・三嶋(さんとう)両郡で六万九〇〇〇石余と決定した。次いで各藩の担当区域の高割帳がそれぞれの用人達に下付され(「国日記」天和二年四月九日条)、検地着手以前に検出高がある程度示されている。検地の事務細目については各藩の用人が寄り合って協議した。 四月十五日、江戸藩邸より検地役人の一番立が出発、十七日までに三番立が出立して、現地到着は二十二~二十四日までの間とされた。一方国元から派遣される検地役人は同月二十三~二十五日に出立している。検地に着手する「竿初」は、幕府から同月二十七日と指定された(「江戸日記」天和二年四月十四日条)。しかし実際には、一日遅れて四月二十八日が竿初となった。課役を命じられた時点で人数不足が懸念されていた(「国日記」天和二年四月九日条)ため、国元からも検地役人をさらに増派した(同前天和二年四月十・十二・二十三・二十五日条)。このほかに現地で人数を雇うようにと、国元から指令が与えられた(同前天和二年四月二十五日条)。 五月二日に検地は開始され、約二ヵ月後の七月二十七日には完了した(「江戸日記」天和二年八月二日条)。検地の実施中、越後と弘前の間には飛脚がたびたび往来し、また越後へ御用金も送られた(「国日記」天和二年六月十五・十八日条)。なお四月の派遣人員とは別に、七月二日にも加勢人数として国元から人数が派遣されている。これは九月中の検地終了をもくろむ国元家老の意図に基づくもので、江戸藩邸での派遣編成の方式を採用して、三手分の家臣を国元で選考して派遣した(同前天和二年七月二日条)。増派を繰り返した結果、七月中旬には当初の竿手一三手が一四手に増え、下旬には二〇手に増加した。幕府勘定組頭佐野正周から内々に、老中は年内に検地を終了させたい所存であるとの意向が伝えられ、危機感を抱いた国元の家老は、検地の早期終了を現地へ催促した。また検地に携わる諸藩の進行状況もにらんで、遅延のないよう何度も注意を喚起し、七月中に終えることを現地役人に厳命している(「京都併越後御用状留帳」弘図古)。 このような中で、現地の幕府代官から渡された清書の帳面の石高と、江戸で下付された高割帳のそれが相違し、検地条目も細部で異なるため、所によっては再検地の可能性があった。七月二十六日に幕府代官設楽孫兵衛から「帳面改」のため検地帳の提出を求められているが、これ以降検地を担当した竿奉行らほとんどの役人が徐々に帰国している(同前)のをみると、再検地という最悪の事態は回避できたと思われる。 検地終了の報告は、八月二日に江戸藩邸から老中・勘定頭・同組頭宛てに行われ(「江戸日記」天和二年八月二日条)、検地場所に最後まで居残っていた検地役人は十一月二十日に江戸に戻っている((国日記」天和二年十一月二十日条)、江戸藩邸では十一月七日から検地帳の清書を開始し(「江戸日記」天和二年十一月七日条)、翌天和三年閏五月に完了して、「検地総目録」を老中阿部正武に上呈した。また大老堀田正俊、勘定頭ら農政専管の諸役人にも同目録を提出した(同前天和三年閏五月二十八日条)。続いて七月二十八日、検地のおもだった役人五人が江戸城に召され、他藩の家臣とともに白銀・時服(じふく)を下賜された(同前天和三年七月二十八日条)。 津軽家が担当した二郡の内三嶋郡の検地帳が残存している(「越後国三嶋郡御検地村高帳」弘図古)。それによると三嶋郡の農村三組(五千石組、批把嶋組、小国東組)は合わせて六五ヵ村(含新田村)で、検地総高は一万九一六九石二斗一合と算定された。古高は一万七四二七石六斗であるから、打出高(うちだしだか)は一七四一石六斗一合となり、約一割の打ち出しがみられたことになる。この打出高の取り扱いについては、国元の家老から現地に対して、他藩とのバランスを勘案して、間をとって中分にせよという指示が行われている。すなわち新検高には人為的な操作が施され、越後高田領の石高は幕府と検地担当藩との間で、人為的に決定されたものと考えて差し支えないであろう。元禄期の幕領検地については、幕府の旧大名領に対する検地は打出部分に期待するところが大きかったとの指摘がある(所理喜夫「元禄期幕政における『元禄検地』と『元禄地方直し』の意義」『史潮』八七)。この高田領検地における打出高の人為的操作や隠田の摘発などといった点も、綱吉政権の財政政策が反映したものではないであろうか。 ![]() 図91.越後国三嶋郡御検地村高帳 目録を見る 精細画像で見る 次に、この検地に派遣された人々についてみてみよう(表14)。まず惣奉行の人選であるが、当初は家老の津軽政朝か津軽政実が候補者であった。それが国元にいる手廻組頭大道寺隼人に代わった理由は、検地役人に多く手廻組に属する藩士がいたことによると考えられる。検地役人には馬廻組に属する藩士も多い。彼らは毎年の検見に派遣されたり、代官となったり、領内の検地に従事したりすることも多かったので、比較的地方の動きに通じていたと考えられ、そのために派遣人員に選ばれたようである。これらの藩士を指揮するには、普段から彼らを指揮下に置いている大道寺の方がふさわしいという判断が働いたのであろう。
さらに、派遣役人の一部は、この検地役が命じられてから津軽家に新たに召し抱えられた。たとえば、高田領検地における実務責任者といえる検地奉行財津永治(ざいつながはる)と検地奉行加役田口維章(たぐちこれあき)がその代表格である。財津・田口とも当藩における検地・財政の巧者として知られるが、彼らが召し抱えられたのは、田口が三月二十六日、財津が三月三十日と津軽家が高田領検地を命じられた直後であること(「江戸日記」天和二年三月二十六日・三十日条)、さらに、重要な任務に早速就いている点からみて、このような課役を命じられたことで実務に強い人物を召し抱える必要性が生じたものと考えられる。またこの他にも、江戸から派遣された算者五人全員、竿奉行は九人のうち三人、江戸から派遣された物書一〇人のうち七人が新規に召し抱えられた。 このような召し抱えは大名課役負担のために駆け込みで有能な実務型の人員を揃えたという見方もできるが、一方では、津軽家の支配機構がこのような事態に即応できる体制を整えていなかったとみることもいえよう。これらの人材は、この後に控える「貞享検地」や元禄の大飢饉の際に再び活躍するのである(長谷川成一「北方辺境藩研究序説―津軽藩に課せられた公役の分析を中心に―」同編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、福井敏隆「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享・元禄期を中心として―」長谷川成一編『北奥地域史の研究』一九九八年 名著出版刊)。
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