弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第2章 幕藩体制の成立

第二節 藩体制の成立

三 初期新田開発の展開

現在の弘前市域における新田開発は、いつ行われたのか時期を特定できないが、他の地域の場合着手年月日等がわかるものがある。それらについて考察し、弘前市域における新田開発の参考にしていくことにする。現在のところ、新田開発の最も古いと思われる史料は、慶長十四年(一六〇九)六月五日に二代藩主信枚が白取世兵衛に「濱の長峰」と「浪岡内鞠澤(まりのさわ)」の派立を命じたものである(資料近世1No.二六五)。「濱の長峰」の現在地は不だが、「浪岡内鞠澤」は現在の五所川原市前田野目(まえだのめ)字鞠ノ沢で、大釈迦丘陵山間の前田野目川右岸地域である。『津軽郡中名字』には「圓(マリノ)澤」とすでに地名がみえているが、「津軽知行高之帳」には村名はみえず、貞享元年(一六八四)の郷村帳に寛文四年(一六六四)以降の新田として鞠野沢村三一九・六石で出てくる。この地は古代に須恵器が焼かれた地であり、近年発掘調査が行われている。
 ついで開発の史料としては、元和六年(一六二〇)十一月十八日に二代藩主信枚が北村久左衛門に「深浦町派(立)」を命じたものと、工藤小左衛門に「柏木町派(立)(かしわぎまちは(だち))」を命じたものがある(同前No.三八五)。「深浦町」は現西津軽郡深浦深浦のことであるが、深浦村がこの時派立されたとは考えにくく、町場形成がなされたものか、町とは別に村が派立されたものと推定される。古くから深浦は日本海に面した町であり、深浦町浜町の真言宗醍醐派円覚寺(えんかくじ)には、至徳二年(一三八五)の鰐口や永正三年(一五〇六)四月十七日に葛西木庭袋伊予守市頼清が建立した薬師堂棟札がある。『津軽郡中名字』にも「吹浦(フカウラ) 近代深浦ト書ク」とみえており、深浦が古くからとして存在していたことを物語っている。ちなみに「津軽知行高之帳」では、深浦村は鼻和郡三九一・九八石の村としてある。
 一方、「柏木町」は現南津軽郡平賀町柏木町を指し、六羽(ろっぱ)川と唐竹川に挟まれた平野部に位置している。建武元年(一三三四)三月十二日の北畠顕家袖判下文は、安藤高季を「上柏木郷」に補任したものであるが(資料古代・中世No.六三四)、この「上柏木郷」を「柏木町」とする説が強い。『津軽郡中名字』にも「柏木町」はみえており、古くからの村であった可能性がいので、この時新たに派立されたものとは考えにくい。町場形成がなされたものと推定される。ちなみに「津軽知行高之帳」では、柏木町村は平賀郡新田として四八九・二八石とある。
 元和七年(一六二一)十月二日に二代藩主信枚が北村久左衛門へ、松神(まつがみ)と大間越(おおまごし)の派立を命じている(資料近世1No.四〇一)。「松神」は現西津軽郡岩崎村松神であり、「大間越」は現西津軽郡岩崎村大間越である。「津軽知行高之帳」では、松神村も大間越村も鼻和郡新田として村名がみえ、はそれぞれ三・一六石と一〇・四五石である。両村ともこのころ派立が始まったものと考えてよいと思う。
 元和八年(一六二二)には、信枚が十三(とさ)(現北津軽郡市浦村十三)を巡検し、亀ヶ岡(かめがおか)(現西津軽郡木造町亀ヶ岡)に城と町屋敷建設を計画したが、結局、翌元和九年(一六二三)江戸より帰国後、工事を中止している(資料近世1No.四〇九・四一〇。一国一城令に抵触することを避けたものといわれている。
 信枚は寛永元年(一六二四)六月二十五日に森内左兵衛大湯彦右衛門大湯町村(おおゆまちむら)の開発を命じている(同前No.四二四)。大湯町村は現西津軽郡木造町大湯町のことであるが、実際の開村は元禄九年(一六九六)であるという(『永禄日記』)。なお、亀ヶ岡築城計画、中止、大湯町村取り立て、これらは一連のつながりがあり、元和八年に出された亀ヶ岡築城計画は、翌年に中止されたわけではないことが判する。元和九年は家光の将軍宣下につき、信枚は七月に供奉上洛しており(資料近世1No.四一三・四一四)、帰国したのは寛永元年(一六二四)五月二十五日であったことが、『梅津政景日記』からわかっている(同前No.四二三)。中止は寛永元年に決まったものと推定される。その代わりに大湯町村派立が計画されたようである。
 このように、派立の取り立ては元和年間に多く、弘前城下近郊の新田村も多くは同年代に取り立てられたものではないであろうか。なお、津軽領の三大新田である木造新田(きづくりしんでん)・俵元(たわらもと)新田金木(かなぎ)新田が成立するのは、それぞれ元禄二~三年(一六八九~九〇)・宝永元年(一七〇四)・同三年(一七〇六)である。