弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第2章 幕藩体制の成立

第二節 藩体制の成立

三 初期新田開発の展開

津軽弘前藩津軽郡四万五〇〇〇石と、他に上野国勢多(こうづけのくにせた)郡(現群馬県)に二〇〇〇石の、合わせて四万七〇〇〇石の領知であった。正保二年(一六四五)の「津軽知行高之帳」(資料近世1No.一一六〇)によれば、津軽郡は三郡からなり、平賀郡一万九二六五石余・新田高一万五六三三石余、田舎郡一万一三七六石余・新田高一万八四〇一石余、鼻和郡一万四三五八石余・新田高七九七二石余、ほかに切添新田(きりぞえしんでん)一万五四六〇石余となっていた。本高四万五〇〇〇石、村数一三四、新田高五万七四六八石余、村数二〇二で、合計一〇万石を越える石高であった。幕府から拝領した領知朱印状表高と比較して、実質は二倍以上の石高を持ち、さらに領内に広大な開発可能地を抱えていたのである。
 本高四万五〇〇〇石は豊臣政権による検地で、新田高五万七四六八石余はその後の開発によるである。この新田高のうち、弘前市域の分を抽出してまとめたものが表10である。ここにみられる村は、初期の新田開発によって取り立てられたものといえよう。平賀郡新田村は八村であるが、弘前城下からみると、津軽野村と向外之瀬(むかいとのせ)村は北、崎・高田・福田・新里(にさと)村は東、下湯口・原ヶ平村は南にそれぞれ位置する。いずれも、岩木川の南に位置している村々である。この内、下湯口村は他の史料からみて、悪(あくど)村を指すものと思われる。「元和年中御家臣姓名大概」(『津軽史 第八巻』一九七八年 青森県文化財保護協会刊)には、越後転封に際して供を申し出た八十三騎の中に、「百石 悪戸村喜右衛門」とあり、村名がみえている。この時期、下湯口村と称していたらしい。津軽野村は天文十五年(一五四六)に成立したという『津軽郡中名字(つがるぐんちゅうなあざ)』(資料古代・中世No.九一五 以下同)に「津合流野 近代津軽野トモカク」として地名が載っており、古い村であった可能性がい。新里村は建武四年(一三三七)七月日の曽我貞光申状案(同前No.六七七)によれば、前年七月に堀越とともに楯(館)が築かれ北朝方の拠点の一つになっている。『津軽郡中名字』にも「新里」と地名がみえ、「元和年中御家臣姓名大概」の八十三騎の中に、「二百石 新里村惣兵衛」とあり村名がみえている。寛永十七年(一六四〇)に三代藩主信義が弟の津軽百助(ももすけ)に与えた、五〇〇石の黒印知行宛行状にも村名がみえており、古い村であった可能性が非常にい村である。これらの村が新田として扱われた理由は不である。
表10 初期の新田(弘前市域)
平賀郡新田村名石   高
(石・斗・升)
鼻和郡新田村名石   高
(石・斗・升)
1津軽野村877.711土堂村478.12
2下湯口村(悪戸村ヵ)552.902萢中村446.92
3向外之瀬村122.353船水村217.44
4新里村719.734折笠村186.52
5福田村720.515三世寺村302.08
6高崎村299.536青女子村212.92
7原ケ平村290.437薬師堂223.00
8高田村793.958鶴田村132.00
9篠森村351.00
10貝澤村24.48
11大森村27.52
4377.112602.00
平賀郡新田高合計に占める割合28.0%鼻和郡新田高合計に占める割合32.6%
注)正保2年(1645)「津軽知行高之帳」(弘前市立図書館蔵)から作成。

 一方、鼻和(はなわ)郡の新田村は一一村で、弘前城下からみると大体北西に位置する村が多い。いずれも、岩木川の北に位置している。このうち、土堂(つちどう)村は元和九年(一六二三)三月八日の革秀寺(かくしゅうじ)宛ての二代藩主信枚の黒印寺領宛行状に村名がみえている。船水(ふなみず)村は建武四年(一三三七)七月日の曽我貞光申状案(同前No.六七七)によれば、前年正月二十日に貞光が南朝方の拠点の一つになっている船水楯(館)を攻めており、当時すでに地名がみえる。また、『津軽郡中名字』にも「船水」として地名がみえ、古い村であった可能性がい。折笠(おりかさ)村も『津軽郡中名字』に「縫笠(ヲリカサ)」として地名がみえている。三世寺(さんぜじ)村は貞和五年(一三四九)十二月二十九日の陸奥国先達旦那系図注文案(同前No.七〇二)に「津軽三郡内しりひきの三世寺に別当ハ」とあって、三世寺という寺院があったことに、村名が由来していることがわかる。『津軽郡中名字』にも「尻引(シリヒキ)」と「三世寺」の地名がみえてる。三世寺村の産土(うぶすな)神であった神明宮の境内には、現在付近から集められた板碑が七基安置されているが、年号が彫られているものが五基ある。元応二年(一三二〇)・元亨四年(一三二四)・文和五年(一三五六)の三種類で、この五基は貞和五年(一三四九)の陸奥国先達旦那系図注文案が作成された時期とほぼ同時代のもので、熊野信仰と関連があるものと推定される。三世寺は鎌倉時代から室町時代にかけて、すでに存在していた可能性がい村である。青女子(あおなご)村は『津軽郡中名字』に「青女(アヲナコ)」として地名がみえており、また、前述の津軽百助に与えた五〇〇石の信義黒印知行宛行状にも村名がみえている。鶴田村は吉田(賀田)村(現岩木町賀田)付近にあった鶴田村を指すようで、鶴田村八幡宮弘前築城時に移され、現在弘前市にある八幡宮となったといわれている(『永禄日記』・『平山日記』)。篠森(ささもり)村は『津軽郡中名字』に「篠森」として地名がみえており、為信の津軽統一時に協力した垣上(館主)の一人に、「篠(サヽ)森勘解由」の名前が見えている。しかし、「津軽知行高之帳」の村名記載を最後に、あとの時代の史料には村名がみえなくなるのである。鼻和郡新田にも成立が中世までさかのぼる村が含まれているのだが、それを新田として扱っている理由は不である。なお、参考として「津軽知行高之帳」にみえる弘前市域の古村名を表11に作成した。
表11 初期の本村(弘前市域)
平賀郡本村石   高
(石.斗 升)
鼻和郡本村石   高
(石.斗 升)
1堀越村611.101中畑村300.73
2門家(外)村361.722櫻庭村200.24
3福村379.713國吉村301.54
4境関460.214蒔苗村382.05
5撫牛子村298.835外野瀬村138.52
6和徳村1235.816町田村408.34
7左(小)比内村164.407中崎村212.42
8取上413.108獨狐村490.06
9清水森410.689宮舘村229.52
10大澤村409.2010中別所村393.93
11小栗山436.5711舘村502.65
12大和澤村159.0112鬼澤村324.18
13小澤村230.5013種市村479.20
14本村31.0614小友村74.36
15十面澤村38.32
16十腰内村1189.74
5601.904665.80
平賀郡合計に占める割合29.1%鼻和郡合計に占める割合32.5%
注)正保2年(1645)「津軽知行高之帳」(弘前市立図書館蔵)から作成。