弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第2章 幕藩体制の成立

第二節 藩体制の成立

二 越後への転封問題

元和五年(一六一九)は二代将軍秀忠が上洛した年であり、東北地方の大名をはじめ多くの大名が秀忠上洛供奉を命じられた年であった。信枚も上洛供奉を命じられたが、四月二十日手元不如意のため、境界決定をしたばかりの隣藩秋田藩に大判一〇〇枚の借用をしている(資料近世1No.三六三)。幕府が秀忠の上洛を発表したのは、この年三月二十五日のことであり、秀忠は五月八日に江戸を立ち、二十七日には伏見城に入った(『新訂増補国史大系 徳川実紀 第二篇』一九七六年 吉川弘文館刊)。ただし、幕府が各大名に出した、上洛供奉の条々の日付は五月十一日である(資料近世1No.三六四)。ともかく信枚も隣藩の佐竹義宣上洛したのである。上洛して秀忠が最初に行ったのが、江戸に留め置いた福島正則改易である。上洛した時点で、信枚が正則の改易についての決定経過をどの程度知っていたのかは不である。というのは、津軽弘前藩にはほとんど資料が残っていないからである。そこで、前項と同じく『大日本古記録 梅津政景日記』(一九八四年 岩波書店刊以下、略して『日記』とする)の記述が重要となる。また、佐竹義宣国元家老梅津憲忠(政景の兄)に宛てた書状も当時の状況をよく伝えている。以下これらの資料を中心に経過をみてみよう(なお、以下の記述は、福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について―『大日本古記録 梅津政景日記』の分析を通して―」『弘前大学国史研究』八四、長谷川成一『近世国家東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊によった)。
 『日記』によれば、政景は義宣とともにまだ江戸にいる四月二十三日の段階で、福島正則が無断で城郭修理をしたためとがめられていることを知っており、翌二十四日には、島田利正(町奉行)を通して義宣が正則は赦免されるという情報をつかんでいる。しかし、二十五日になると事態は一変し、幕府は処罰方針を打ち出し、上杉景勝伊達政宗・義宣の家臣一人ずつが江戸城に呼ばれ、正則の件につき三人に相談する予定であったが、それを中止する旨言い渡されている。幕府は、秀忠が上洛する以前から、正則を処罰する方針であったことがわかる。義宣について上洛した政景が、正則の具体的処罰を知ったのは、六月十日であった。
 一方、六月八日付けの憲忠宛て義宣の書状は、福島正則津軽への国替と、津軽信枚への国替通知がないことを伝えている(資料近世1No.三六六)。六月十一日付けの憲忠宛て義宣の書状でも、信枚の転封先は不であることを知らせる一方、さきに上洛費用の大判一〇〇枚を貸与したことを後悔している旨も伝えている(同前No.三六七)。信枚の転封によって貸与した金一〇〇枚を取り戻すことは不可能になると思ったらしい。この時点でも、福島正則津軽転封は判しているものの、信枚の転封先は決まっていないという状態であった。ところが、六月十七日付けの義宣書状は、信枚の越後転封を伝えており(資料近世1No.三六九)、信枚もその沙汰を受けたものと推定される。六月十八日付けの義宣書状は、信枚の越後転封に伴う秋田領内比内筋と日本海側の八森筋の荷物運搬の許可を伝えたもので(同前No.三七〇)、隣藩としての対応指示が始まるのである。六月十九日付けの憲忠宛て義宣の書状は、福島正則津軽入封後に起きるかも知れない百姓一揆勃発の危惧を伝えており、藩主交替による一揆が隣藩で起きて、正則から鎮定の援助要請があっても、幕府からの鎮定命令がないことを理由に断れという内容となっている(同前No.三七一)。義宣の慎重な対応ぶりがうかがえる。

図65.佐竹義宣画像

 義宣が国元にせっせと情報を送っているのに対し、この間信枚が国元に対してどのような情報を知らせていたいたのかは資料がなく不である。信枚が国元へもたらした情報は、今のところ服部康成・白取瀬兵衛両名宛てに六月二十一日に出された申渡状による指示が唯一である。その内容は越後転封の準備を一三ヵ条にわたって指示したもので(同前No.三七二)、恐らく国替が決定されてから詳細に検討されたのであろう。主なものを挙げると以下のとおりである。
一、国替を命じられ、福島正則津軽転封となり、自分は加増されて越後転封となった。

二、たとえ小禄とはいえ、津軽家扶持を受けたものは残らず召し連れる。また、又者(またもの)まで召し連れて行く。

三、下々の者まで、路銀を借りるというであろうから、用意をするように申し付けること。なお、検使衆がやがて下るであろうが、その時は確かな者を下すので、その者に銀子を渡すこと。

四、このたび上した家中の者は、兵糧でも何でも売れる物があったら、どこへでも売り払って、越後に上る用意をするように申し付けること。ただし、武具や馬鞍などは売ることを禁じる。

五、下々の者で他領へ逃げ走る者が出ると思うので、山々・口・しのび道に目付を置いて、人の改めを堅く行うこと。

六、藩から扶持をもらっていない者であっても、このたびの国替越後に上るという者があったら、路銀その外をわして召し連れること。

七、最勝院長勝寺百沢寺貞昌寺国替の通知を行い、末寺までも一緒に越後まで上るという寺は召し連れること。その際は路銭なども貸すこと。

八、荷物のことは、必要なものは道中各自に持たせ、その外の荷物は、よく包ませて鰺ヶ沢まで送り、藩の船がありしだいに積んで越後まで上らせること。その他は、他国から船が折りよく来たら雇って、荷物を積み、確かな上乗り二人を女子・妻子とともに乗せ、越後まで上らせること。

幕府でも、津軽国替検使役にこの後八月に大坂町奉行となる島田直時(しまだなおとき)(町奉行島田利正の兄)を任命している。梅津政景は義宣の命を受け、六月二十日に直時の元に参上し、わざわざその任務を聴いている。それによれば、津軽を請け取り、福島正則に渡し、百姓等にも津軽福島正則の領地にわされたので、そのことをよく心得るようにと申し付けてから帰るようにと、将軍秀忠から直々に命を受けたとあり、一緒に津軽に下る相手役は堀直之(使番)であることも聞き出している。このため、六月二十一日秋田藩では島田・の領内通行に際して、両名にごちそうすることはもとより、付き従う「御下衆」まで泊りはもちろん、昼休みまで振る舞いをすることに決定し、また、津軽へ下るときは両人へ馬一匹ずつを進上し、津軽から帰るときは島田には太折紙・馬代銀一〇〇枚、へは小袖五・太折紙・馬代銀一〇〇枚をそれぞれ進上することとし、政景が国元家老梅津憲忠に指示している。津軽弘前藩でも検使を迎えるに当たって、同様の対策が練られていたのであろうか。島田直時は六月二十六日に津軽に下った(六月二十日~二十六日までの記事 資料近世1No.三七三)。その前日秋田藩では、信枚の国替につき、馬一五〇匹・舟三艘を貸与することを決定し、政景が国元の憲忠に指示を出している(同前No.三七三)。
 ところが、正則の津軽への国替は一変する。津軽はあまりに遠いということで中止になり、酒井忠勝牧野忠成両人の領地近所に、「津軽四万五千石」を下されることなり、正則には七月二日に幕府から寺沢広高牧野忠成花房正成三人の指示を受けるようにいう、酒井忠世本多正純土井利勝三人連名の口上書が下された(資料近世1No.三七六、『新訂増補国史大系 徳川実紀 第二篇』一九七六年 吉川弘文館刊)。七月二日付けで義宣が国元の憲忠に送った書状では、津軽国替が昨日に中止になったことを告げているが、正則の新たな転封先は知らないとしており(資料近世1No.三七七)、情報をしっかりとはつかんでいなかったようである。結局、正則に与えられることになった領地は、越後国魚沼郡(うおぬまぐん)において二万五千石と信州川中島において二万石の合わせて四万五千石であった(前掲『新訂増補国史大系 徳川実紀 第二篇』)。正則の津軽への国替が中止になったのは、津軽家側で家老服部長門康成が幕府に働きかけたためとか、幕府の政治顧問天海(てんかい)僧正に信枚が働きかけたためとか、信枚の正室満天姫(まてひめ)(家康の異父弟松平康元の娘、家康の養女として信枚に再嫁、先夫は正則の養子正之)が幕府に働きかけたためとか、いろいろ取り沙汰されているが、津軽家側の運動で変更になったわけではなく、正則側の働きかけによるものであろう。当時、正則は江戸におり、信枚は秀忠に供奉して伏見におり、信枚の方が秀忠や幕閣に対して、国替中止要請をしやすい立場にあったにもかかわらず、そのような動きはみられないのである。とすれば、正則が江戸にいた幕閣に対して、津軽への国替は遠いのでやめてほしい旨依頼し、その願いが伏見に届けられ、秀忠によって認められたと考えざるをえない。

図66.満天姫画像


図67.天海画像

 なお、この転封騒ぎの時、国元に信枚の国替情報を知らせたのは、竹森六之助唐牛九右衛門であった。国元では小禄の者が八三人、転封先へ供奉する旨を表し、名前を書き上げられている。これは、前述した申渡状の第二項に該当する行為であった。これらの者は元和七年(一六二一)に知行が一〇〇石に加増され、士分(しぶん)に召し直された。これが「八十三騎」といわれる武士たちである(資料近世1No.三七四)。
 津軽弘前藩国替がなくなったため、秋田藩が領内で津軽家越後国替に使用させるために準備した馬と舟は、帰する島田直時へ使用させるように変更され、七月朔日に政景が国元へ指示をしている(同前No.三七五)。このような秋田藩の好意に対する返礼として、八月六日に信枚は使者秋田金左衛門わして、政景に帷子(かたびら)三を贈った(資料近世1No.三七八)。また、八月九日には義宣が信枚や近藤秀明久永重膳昼数寄(ひるすき)(茶会)に、九月六日には信枚が義宣を振舞(宴会)に招いており(同前No.三七九・三八〇)、両藩の関係は友好的であった。将軍秀忠は九月十八日伏見を立って帰途につき、京都二条城の経営について指示を出し、その後は東海道を下り、十月六日江戸城に入った(前掲『新訂増補国史大系 徳川実紀 第二篇』)。信枚も九月二十二日には江戸へ向かい、守山(もりやま)(現滋賀県守山市)を遅く出発したため、草津(くさつ)(現滋賀県草津市)を昼ごろ出て、夜遅く鳥居本(とりいもと)(現滋賀県彦根市島居本町)に到着している(資料近世1No.三七八)。ただし、守山と草津の位置は、草津の方が京都寄りであり、『日記』の記述には錯誤がみられることを付記しておく。信枚は遅くとも十月十日ごろには江戸に到着したものであろう。以上の一連の動きをまとめたものが表9である。
表9 元和5年秀忠上洛時の津軽信枚佐竹義宣の動き
月 日津軽信枚佐竹義宣幕府・秀忠
3.25秀忠の上洛発表
4.17義宣の江戸屋敷訪問津軽信枚の屋敷訪問を受ける
21義宣へ金100枚の借金申し込む
23福島正則の咎め情報を知る
24福島正則の赦免情報を知る
25福島正則の処罰方針を知る福島正則の処罰方針決定
26(伊達政宗・藤堂虎先発)
5. 8(上洛ヵ)(上洛ヵ)秀忠上洛
11上洛供奉の条々出る
16(伊達政宗)
27(伏見着ヵ)(伏見着ヵ)秀忠伏見
6. 2福島正則津軽転封老中奉書江戸わす
8福島正則津軽転封を知る
9老中奉書江戸着,申し渡し
10(政景、正則の津軽転封を知る)
11(転封先不)信枚の転封先不,金100枚の貸与を悔やむ
17(越後転封を知るヵ)信枚の越後転封を知る津軽信枚越後転封指示ヵ
18領内比内・八森筋の弘前藩の荷物運搬許可を下す
19正則津軽入部後の一揆対策を指示
20島田直時津軽下向任務問い合せ
21福島正則津軽転封と,信枚の越後への加増転封につき指示島田直時堀直之への馳走指示
25弘前藩伝馬・舟貸与の指示
26島田直時津軽へ下向
7. 1弘前藩への貸与伝馬・舟を島田直時へ使用させる指示,福島正則津軽転封中止を知る福島正則津軽転封中止
2福島正則津軽転封中止の老中奉書を下す
8. 6梅津政景秋田金左衛門わし,帷子三を贈る政景,信枚から帷子三受け取る
9佐竹義宣昼数寄に招かれる津軽信枚近藤秀明久永重膳昼数寄に招く
9. 6佐竹義宣を振舞に招く津軽信枚の振舞に招かれる
18秀忠江戸
21江戸
22江戸へ、夜遅く鳥居本着鳥居本着
10. 6秀忠江戸
10.10頃(江戸着ヵ)(江戸着ヵ)
注)『日記』・『徳川実紀 第二篇』から作成。