弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第2章 幕藩体制の成立

第一節 徳川政権と津軽氏の動向

二 江戸幕府からの軍役負担

この時期の津軽家大名課役は、皇族公家衆の饗応役普請役江戸における火消門番に限定され、その意味で綱吉政権下での大名課役と同一路線にある。
 手伝普請はこの時期五回命じられている。その内容をみると、寺社普請が二度、江戸城城門普請が一度、河川普請が二度である。正徳三年(一七一三)、津軽信寿(つがるのぶひさ)は、相役の富山藩主前田利興(まえだとしおき)とともに、増上寺方丈の普請を命じられた。その費用は、弘前市中からの金一〇〇〇両上納と、領内全域への冥加金(みょうがきん)の賦課によって捻出された。弘前市中からの金子上納は自発的献上という形を取るものの、実際には割り当てて強制的に上納させたものとみられる。この普請の特徴は、従来どおり家臣が現場に出向して普請に携わる一方、商人冬木屋又次郎(ふゆきやまたじろう)に依頼して工事を請け負わせたことである。
 河川関係の修築における手伝普請元禄時代末に行われたのが最初だが、津軽家の場合は、和三年(一七六六)と安永四年(一七七五)の両度にわたって命じられた甲州川々普請がこれに当てはまる。このうち和三年の際には、国元の大地震で甚大な被害を被ったことにより、幕府から普請役御免を命じられている。安永四年の場合は、惣奉行らの人選を行い、幕府から工事に必要な書類である仕様帳と現場の絵図を渡されたにもかかわらず、実際には普請はほとんどが完成したので、普請費用の金納が済み次第、藩から現場へ人数を派遺するよう申し渡されている。すなわち、この普請は、大名が工事費用を負担するが、実際の工事は幕府が実施し、藩からは実地検分のための役人が派遺されるだけの「御金(ごきん)御手伝」だった(「御金御手伝」については、松尾美恵子「御手伝普請の変質―『御金御手伝』の成立を中心に―」『学習院史学』一〇 を参照)。費用捻出のため、藩では江戸上方国元において金策を実施したが、さらに江戸大坂京都三都の蔵元からは五年間借金を拒絶される事態に立ち至った。ここで藩は経費節減によって費用捻出の一助とし、当座を切り抜けることに成功している。
 以上みてきたように、この時期の普請役には、以前の家臣が直接普請の現場に赴いたり、国元から領民を人夫としてわしたりする普請から、町人請負の普請、さらに時代が下がると「御金御手伝」へと変化し、普請役の内容自体に大きな変容がみられる。
 この時期の江戸における役負担をみると、新たに門番の務めが現れる。門番の務めは、江戸城本丸西丸などの内郭の諸門には幕府の番方大手門内桜田門西丸大手門の大門三門や、西丸への出入りを押さえる外桜田門馬場先門和田倉門、大手前から北丸への出入りを押さえる竹橋門譜代大名大名小路や大手前より外側の諸門に外様大名、外郭の諸門に寄合旗本が配置されていた。各門番は二家が担当し、交代で警固に当たっている。大名の場合、参勤交代江戸にいる間門番を命じられるので、変更は原則的に四月・六月・八月の時期に集中する参勤国元下向の際に行われたが、実際には種々の事情で交代することもあった(針谷前掲論文)。

図51.江戸城主要城門

表6 江戸城門番の格と人数
番号人数(人)
給人足軽中間合計
浅草橋旗本 5000~万石
筋違橋旗本 5000~万石
小石川旗本 3000~万石
牛込旗本 3000~万石
市谷旗本 3000~万石
四谷旗本 3000~万石
喰違二丸留守居
赤坂旗本 3000~万石
旗本 5000~万石
幸橋外様 1万石余42252051
山下旗本 3000~万石
浜大手旗本 5000~万石
数寄屋橋旗本 5000~万石42252051
鍛冶外様 1万石余42252051
呉服橋外様 2万石余42252051
常盤橋外様 3万石以上43272357
神田橋外様 7万石(国持分家は3万石以下)53352770
一橋譜代 2万石以下42252051
雉子橋旗本 5000~万石
清水旗本 5000~万石
田安譜代 1万石42252051
半蔵譜代 1万石余43272357
外桜田譜代 3~5万石(外様に準ずる家)53352770
日比谷外様 1万石余42252051
馬場譜代 2~3万石42252051
和田倉譜代 2~3万石43272357
大手譜代 10万石20510050175
平河先手組与力同心
竹橋譜代 1万石余42252051
内桜田譜代 6~7万石1055050115
坂下
西丸大手譜代 6~10万石1055050115
注)格は天保8・10年(1837・39)刊「殿居嚢」,人数は「教令類纂」所収の正徳3年(1713)の規定による

 津軽家神田橋門番を多く務めている。神田橋門は江戸城の大手前を固める門の一つであり、給人五人・侍三人・足軽三五人・中間二七人の計七〇人が詰めることが定められていた(正徳二年六月「所々御門番人数之覚」『徳川禁令考』前集四)。当該時期において津軽家神田橋門番勤役は九回に及んでいる。また火消役は、本所火消役が七回、猿江材木蔵火之番が一回、浅草御蔵火之番を一回務めており、この時期、津軽家江戸における役負担の中心が、神田橋門番本所火消役だったことがうかがえる。
 また、正徳~天期において、勅使公家衆の馳走役が八回にわたって命じられた。宝暦十一年(一七六一)津軽信寧(つがるのぶやす)は勅使饗応役を命じられた代わりに、本所御蔵火之番を免じられている。また安永二年(一七七三)八月の勅使女御使馳走役を命じられた際にも神田橋門番を免じられた。これは、過重な役負担を大名に課さないことで、「奉公」に支障が出ないよう配慮したものと考えられる。