弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第2章 幕藩体制の成立

第一節 徳川政権と津軽氏の動向

一 慶長五・六年の動乱と津軽氏

豊臣政権は、その天下統一が短期間になされたことにより、豊臣家内部の対立をはじめ、石田三成(いしだみつなり)ら奉行を中心とする「吏僚派(りりょうは)」と加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らの武将に代表される「武功派」の家臣間対立、中央集権的性格を重んじる奉行たちと独立的な領土支配を目指す大名の対立があった。そして、五大老五奉行間の政権の主導権をめぐる権力闘争、その問題とかかわってくる豊臣家徳川家の間の覇権抗争など、多くの政治的矛盾を内包していた。それが、慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉の死を契機に噴出し、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いは、その矛盾による確執が行き着いたところで発生したものであり、その決着を踏まえて、以後の幕藩体制社会が形成されていったのである(笠谷和比古『関ヶ原合戦―家康の戦略と幕藩体制―』一九九四年 講談社刊)。
 関ヶ原の戦いは、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原(現岐阜県不破郡関ヶ原町)で局地的に戦われた、いわゆる「天下分け目の戦い」で、この戦いにリンクした形で、全国各地で戦いが行われた。奥羽の大名たちもこれに無関係でいることはできなかった。
 奥羽での戦いの中心となったのが、西軍に味方した豊臣政権五大老の一人である会津上杉景勝と、それに対する東軍の出羽山形最上義光陸奥岩出山の伊達政宗らである。この背景には、秀吉の惣無事令発令以後、全国統一に至るまでの間にみられた対立が尾を引いていたともいう。すなわち出羽国庄内をめぐる義光と景勝の争い、南奥羽の覇権をめぐっての政宗と佐竹義重・義宣父子の争いである。これらの各氏は惣無事令が発せられた後、秀吉から自らに有利な裁定を得るためにそれぞれ豊臣政権内部のつてを頼っていた。佐竹・上杉両氏を代弁する立場にあったのが、石田三成増田長盛であり、伊達・最上両氏は浅野長吉徳川家康らを頼っていたとされる。この過去の経緯が、この中央権力の分裂事態に反映し、以前の人脈がそのまま支持勢力となっていったのである(大林太良・木昭作責任編集『週刊朝日百科日本の歴史 二九 関ヶ原 合戦の変遷』一九八六年 朝日新聞社刊)。慶長三年に越後から、陸奥国会津・出羽国置賜(おきたま)地方に転封してきた景勝は、秀吉死後の政治的に不穏な情勢に対応する手段として軍事力を強化した。
 五大老の一人であった家康は、慶長五年六月六日に諸大名を大坂城西丸に集めて、諸大名の会津攻めを命じた。そして伊達政宗佐竹義宣最上義光南部利直東北・関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記」、「貞山公治家記録」)、六月十六日、大坂城を発して東国に下向した。
 七月七日、家康は最上義光に書状を発し、その中で会津への出陣日を七月二十一日とし、諸将が同心して義光のもとに参陣することを伝えた(「譜牒余録(ふちょうよろく)後編」)。さらに、義光のもとにわした家康の使者である中川忠重(なかがわただしげ)・津金胤久(つがねたねひさ)は、家康の命を受ける形で北奥羽の諸大名に対して書状を発し、南部利直秋田実季、さらに出羽仙北の中小大名である小野寺義道(おのでらよしみち)・六郷政乗(ろくごうまさのり)・戸沢政盛(とざわまさもり)・本堂茂親を最上口に置いて米沢の押さえとし、また出羽由利郡の赤尾津孫次郎(あこうづまごじろう)・仁賀保挙誠(にかほたかのぶ)を庄内の押さえに配置した。また米沢から会津に侵入する先陣を最上義光が務め、これらの軍勢の兵糧最上氏から借りることを命じた(資料近世1No.八〇)。
 家康が東下した後、上方の情勢は大きく転換し、石田三成が毛利輝元(もうりてるもと)を盟主として大坂城に招き、三成を中心に着々と家康討伐計画が進められていった(長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」同編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、以下、本項の津軽氏関係の記述は多くこれによる)。奥羽にあっても、七月七日の家康の指令下達があった一〇日後、前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)の三奉行連署で、秋田実季と小野寺義道豊臣氏に味方を求める書状が届き、小野寺氏はこの後、他の北奥羽諸氏とは異なる独自の方向を歩むことになった。家康が下野国小山で西軍諸大名が伏見城攻撃を開始したとの情報を聞き、直ちに西へとって返したのは七月二十五日である。その際家康は、上杉の備えとして、次男の結城秀康(ゆうきひでやす)を宇都宮城に置き、伊達・蒲生・・最上らの大名を引き続き上杉攻撃に当たらせた。七月下旬には伊達政宗が自領に接する上杉領である刈田郡白石城を落とした。しかし上方の様子が奥羽に伝わると、少なからざる動揺が走ったらしく、諸大名は、最上義光との間に、家康・秀忠父子をなおざりにせず、また相互に離間の動きのないように記した起請文を取り交わし(「譜牒余録後編」)、自らの居城を固めるため領国に帰還を始めた。さらに家康から、出陣をねぎらったうえで帰国を命じる書状が、南部・六郷・小野寺・秋田・仁賀保・赤尾津氏に送られ(「陸奥盛岡南部家譜」、「古文書集」)、結果的には諸大名の帰国を追認することになったのである。

図43.奥羽諸大名の東西勢力分布図

 この後の戦況の概略をみると、上杉勢が攻勢に転じ最上領に侵攻、義光の居城山形城へしだいに包の手が伸びてきた。義光は甥に当たる伊達政宗に援軍を求め、これに応じた政宗は叔父の留守(るす)政景を名代として派した。関ヶ原での西軍の敗報が伝わると攻守は所を変え、上杉勢は最上領内から撤退を開始した。一方、先に領国に引き揚げた北奥羽の諸大名のうち、南部利直は、その領内和賀郡から稗貫(ひえぬき)郡において、秀吉の奥羽仕置によって改易された旧領主和賀氏稗貫氏らの旧家臣による一揆に見舞われた。一揆の背後には伊達氏家臣による支援などもあったが、利直は翌年これを鎮圧した。最上義光は、上杉氏の撤兵の後、かつてその領するところであった庄内地方を上杉氏から奪回する好機とみて、庄内攻略に乗りだし、北出羽秋田沢・由利郡内の各氏の協力も得て、翌慶長六年四月に酒田城を陥落させ、庄内は再び最上氏の領するところとなった。同年八月十六日、上杉景勝は家康から米沢三〇万石への減転封(げんてんぽう)を命じられた。上杉氏転封が無事に済むかどうかは、その大きな軍事力がそがれていない状況下では予断を許さない形勢だったことから、同月二十四日、家康は最上義光に対して朱印状を発給し、そのなかで陸奥・出羽・越後の諸大名を軍事動員する体制を示した(資料近世1No.八四)。上杉氏が何事もなく米沢に移ったことから、奥羽における関ヶ原の戦いに連動した慶長五・六年の動乱は一応終結した。
表5 動乱後の大名配置
居 城氏 名石 高
陸奥 弘前津軽信枚47,000
 〃  盛岡南部利直100,000
 〃  仙台伊達政宗615,000
 〃  若松蒲生秀行600,000
 〃  棚倉立花宗茂30,000
 〃  中村相馬利胤60,000
 〃  岩城平鳥居忠政120,000
出羽 秋田佐竹義宣205,800
 〃  山形最上義光570,000
 〃  米沢上杉景勝300,000