弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第1章 統一政権と北奥の動向

第四節 豊臣政権への軍役

三 北奥羽における領主支配

天正十八年(一五九〇)七月の奥羽仕置は、奥羽の諸大名の領土を確定することが第一の目的であった。この七月の仕置によって、出羽国仙北郡角館城主戸沢光盛南部信直は秀吉の領知朱印状を得ることができたが、この時点の朱印状では石高が表記されていない。それは、この時点で検地が行われていないからである。
 この後、表4にもらかなように、戸沢氏は翌天正十九年一月十七日に仙北の北浦郡において四万四三五〇石の知行を認める朱印状を改めて受け取り、秋田氏仙北由利の大名・小名衆も、天正十八年十二月から翌十九年正月にかけて石高表記の朱印状を発給されている。由利五人衆石沢氏祢々井(ねのい)氏・下村(しもむら)氏らはわずか一ヵ村のみを知行する小名であるが、豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆・秋田氏、そして津軽氏を「隣郡之衆」に編成することにより、太閤蔵入地代官職を遂行させるとともに、太閤蔵入地からの収益を利用して朝鮮出兵の軍船や伏見城普請用の材木の伐採と廻漕、また太閤鷹や金の徴収をもくろんでいたのである。津軽氏南部氏については、現在のところ石高表記の朱印状が確認されていないが、天正十九年の十月までには両氏に朱印状が発給されたとされており、津軽氏の場合、約三万石の領知を認められ、ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の管理を任された(長谷川成一『近世国家東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊)。
表4 北奥羽の大名・小名の領知
領 主場 所石 高年 代
南部大膳大夫南部内七郡天正18年7月27日
戸沢九郎出羽国仙北之内九郎当知行天正18年7月28日
仁賀保兵庫出羽国油利郡内所々 3,715石9斗9升天正18年12月24日
打越宮内小輔出羽国油利郡内所々 1,250石7斗9升天正18年12月24日
祢々井五郎右衛門出羽国油利郡内祢々井村  169石1斗天正18年12月24日
岩屋能登守出羽国油利郡内岩屋村・平釘村  891石1斗8升天正18年12月24日
下村彦次郎出羽国油利郡内下村  175石天正18年12月24日
石沢二郎出羽国油利郡内石沢村  398石5斗天正18年12月24日
小野寺孫十郎出羽国上浦郡31,600石9斗6升天正18年12月19日
本堂道親 8,983石3斗1升天正18年12月19日
戸沢九郎出羽国仙北之内北浦郡44,350石天正19年1月17日
安東太郎出羽国檜山郡一織・秋田郡之内52,439石2斗7升3合天正19年1月17日
六郷弾正出羽国仙北中郡内 4,518石天正19年正月17日
小野寺孫十郎出羽国仙北之内上浦郡三分二31,600石天正19年正月17日
注)秋田県史』(資料・古代中世編),『本荘市史』(史料編Ⅰ上・史料編Ⅲ)より作成。

 しかし、天正十八年末から翌十九年にかけて、出羽国では庄内藤島一揆由利・仙北一揆陸奥国では大崎・葛西一揆和賀・稗貫一揆九戸一揆が起こり、これらの一揆とその鎮圧を通じて、奥羽の地の領国支配は改編を余儀なくされる。旧大崎・葛西領の大名であった木村吉清・清久は改易され、同地には伊達政宗国替えされた。また、南部氏の居城が三戸城から天正十九年に蒲生氏郷の普請が加えられた福岡城(現二市)に移転され、かつ翌文禄元年に領内の諸城の破却が行われ、四八城から一二城へ減少させられたごとく、着実に奥羽の地へは、この天正十九年の再仕置によって豊臣政権の政策が浸透していくことになった。夷島の蠣崎(松前)氏も、文禄二年(一五九三)一月五日、名護屋に参陣し、夷島の支配権を公認する秀吉朱印状を獲得し、安東(秋田)氏の被官身分から脱し独立の大名となった。
 なお、文禄四年九月十六日付の秀吉朱印状によれば、このころ秀吉は全国的に「御鷹場」を設置している。この朱印状と同日付でほぼ同文の朱印状は、奥羽の地では秋田実季・南部信直小野寺義道に発給されているが、この時期までにすでに津軽氏松前氏の領内にも御鷹場が設置されていることから、政権は太閤蔵入地以外の外地をも支配下に置き、統一政権による支配統制の楔(くさび)を奥羽・「日の本」に至る諸大名の領内へさらに強固に打ち込もうとしたのである(長谷川前掲書)。また、これは大名側からみれば、「御鷹場」を管理し、太閤鷹を政権へ献上し続ければ、その政権の庇護のもと領国支配を維持できることを意味した。奥羽の大名は、太閤蔵入地だけでなく「御鷹場」の設定により、さらに領国支配の安定を図ることが可能になったのである。
 しかし津軽為信はその治世(~慶長十二年十二月五日死去)において、家臣に対する知行安堵状(ちぎょうあんどじょう)・宛行状(あてがいじょう)をまったく発給しておらず、家臣団が戦国末期から継続している所領支配形態をそのまま認めていたのも事実であった。南部氏も、戦国末期に獲得した志和(しわ)郡や旧九領、和賀・稗貫両郡については知行宛行状を発給していたが、本貫(ほんかん)の地である糠部郡譜代家臣にはまったく知行安堵状・宛行状を発給していない。津軽氏南部氏も、家臣団に対して直書(じきしょ)形式の黒印知行安堵状・宛行状を発給することができるようになるのは、二代藩主津軽信枚(のぶひら)・南部利直(としなお)の時期であり、それまでは家臣団の在地領主権を認めざるをえなかったのである。
 津軽為信が、千徳(せんとく)氏を慶長二年(一五九七)に滅亡させ(資料近世1No.六六)、津軽建広(たてひろ)を慶長四年に大光寺(だいこうじ)城主(同前No.七三)に据えたのも、有力家臣の抹殺か一族による支配の安定しか取りえなかった津軽氏家臣団統制の不安定さが表れている。津軽氏が居城を大浦城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に高岡城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、天正十九年に福岡城、文禄三年ころに盛岡城へと、天正十八年から慶長年間にかけて両氏ともに居城を転々と移転させているのは単なる偶然ではなく、津軽氏南部氏家臣団統制の強化と拡大していく城下町機能に対して対応を迫られていたのである。このような中で、津軽・南部領境が文禄四年に確定していく(同前No.六二)。
 津軽領には太閤蔵入地が設定され、この太閤蔵入地からの年貢米敦賀豪商組屋(くみや)源四郎に命じて南部領へ売却させたのは奉行浅野長吉であった(同前No.五九)。長吉は天正十八年(一五九〇)の奥羽の仕置後も奥羽の大名の領国支配維持を担当し、また、文禄二年に秀吉から朱印状によって南部氏取次として任命されていた(『大日本古文書・浅野家文書』)。取次は、政権の政策を大名に浸透させ、また大名から政権への取次を果たしつつ、最終的には政権に大名を従属させることを任務とする(山本博文『幕藩制の成立と近世の国制』一九九〇年 校倉書房刊)。津軽の米が、浅野長吉により組屋を通じて南部領に売却されていることは、津軽領南部領も政権からすれば一括して同じ豊臣政権の領土であるということをらかにしたことを意味しており、その最北端にある北奥で浅野長吉奉行として任務を確実に遂行しようとしたのである。その際、北国海運豪商を利用し、豪商の経済力によって領国支配を強化するとともに、京都への交通を握る敦賀小浜豪商を通じて南部氏津軽氏上方に結び付け、中央政権への依存度を深めさせていったのである。