弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第1章 統一政権と北奥の動向

第三節 九戸一揆と肥前名護屋への出陣

一 九戸一揆と動員大名

戦国末期の北奥の糠部郡(ぬかのぶぐん)は、三戸南部氏を中心とした九戸氏・櫛引(くしひき)氏・一戸氏七戸氏ら南部一族による連合である「郡中(ぐんちゅう)」、つまり国人一揆(こくじんいっき)(国人といわれた在地領主層の血縁・地縁に基づく連合組織)によって治められていたとされる(菅野文夫他『岩手県の歴史』一九九九年 山川出版社刊)。三戸南部氏は、天文八年(一五三九)に当主晴政(はるまさ)が将軍足利義晴(よしはる)の一字を与えられていることからも南部一族の宗家であるという地位は確定していたが、九戸氏糠部郡の久慈(くじ)氏・姉帯(あねたい)氏、斯波(しば)郡の斯波氏岩手郡の福士(ふくし)氏らの諸領主と縁戚関係を結ぶなど、九・二を押さえて岩手・斯波に勢力を及ぼしていた。そのため、三戸南部氏宗家としての地位は、非常に不安定なものであったのである(小林清治「九戸合戦」『北辺の中世史』一九九七年 名著出版刊)。
 しかし、天正十八年(一五九〇)七月二十七日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直(のぶなお)が南部氏宗家としての地位を公認され、それ以外の九戸氏らは三戸氏の「家中(かちゅう)」あるいは「家臣」として位置づけられ、居城を破却(はきゃく)し三戸城下に集住するよう強制されることになった。ところが九戸氏は天正十八年七月の奥羽仕置の後も三戸氏をしのぐ勢いを持っており、当主である九戸政実(まさざね)は相変わらず信直の権力下に属する気配をみせず、南部家中からの独立をもくろんでいた。

図8.南部信直画像

 九戸政実はすでに、戦国末期の南部晴政の代から南部氏家督をねらっており、信直の代になってますますその意図をあらわにしていった。天正十七年八月二十日に前田利家が信直に与えた書状によれば、九戸政実は「叛逆之族(はんぎゃくのやから)」とされ、その反抗的な態度は中央政権に公然として知れ渡っていたのである(資料近世1No.二)。
 豊臣秀吉はこのような状況に対し、天正十八年七月から行われた奥羽仕置の際に、和賀・稗貫・南部領の仕置については伊達政宗の意見を採用しその仕置遂行に利用する一方で(『伊達家文書』)、家臣浅野長吉(あさのながよし)(後に長政(ながまさ))を和賀・稗貫郡に検地奉行として下向させた。その浅野長吉は、同年九月に稗貫郡の鳥屋ケ崎(とやがさき)城を拠点として和賀・稗貫郡の仕置を行い、その役割を終えた後に奥州を去った(『信直記』盛岡市中央公民館蔵)。この時、水沢(みずさわ)に松田太郎左衛門、江刺(えさし)城に溝口外記(みぞぐちげき)、鳥屋ケ崎城に浅野勝左衛門忠政(ただまさ)らの家臣目代(もくだい)として配置し、仕置後の万全を図った。なお、南部領検地等の直接的仕置は受けなかったが、長吉は信直の家臣の中で帰服しないものがある旨を聞き、使者をわして、以後、信直へ対し異心なきよう命じた。この行動は長吉の個人的な考えに基づくものではなく、秀吉は朱印状によって、南部氏に対し「愚意(ぐい)」を申しかける家臣、すなわち反抗的な九戸政実らがおり、この動きに断固たる処置をするよう長吉に命じており、秀吉の強い意図を受けてのものであった。秀吉は、浅野長吉を政権の「取次(とりつぎ)」として、信直の領国支配を支え近世大名として存続できるよう保障することをらかにしていたのである。
 しかし、この奥羽仕置軍が去った直後の天正十八年十月、すでに述べたように出羽国では仙北由利庄内藤島一揆が、陸奥国でも新たに入国した木村吉清(よしきよ)の近世的な方針に反発し、大崎・葛西一揆が起こった。和賀・稗貫郡でも一揆が起こり、一揆勢は浅野長吉配下の浅野忠政が配置されていた鳥屋ケ崎城を襲撃し、南部信直三戸城からわずか五〇〇騎余の兵で駆けつけ忠政を救い出すという事態も起こった。奥羽の地はまさに一揆の嵐が吹き荒れていたのである。