弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第1章 統一政権と北奥の動向

第一節 大浦氏の統一政権への接触

一 関東・奥惣無事令と北奥大名の動向

その後、北奥羽地域では、天正十七年(一五八九)二月初め、元湊城湊茂季(みなとしげすえ)の嫡子で、天正七年(一五七九)の茂季の死後に豊島城主を継いでいた豊島九郎通季(みちすえ)(季(たかすえ))が、家嫡流を称して戸沢盛安(とざわもりやす)・南部信直らと結んで湊城を襲った。
 愛季の死後、湊城にはその愛季の後継者である実季(さねすえ)が入っていたが、戦端が開かれると実季は檜山城(ひやまじょう)に逃れ、一五〇日余の間ここに籠城をしたことが伝えられている(資料古代・中世No.一〇八六)。この戦いは、本庄繁長(ほんじょうしげなが)勢の支援を得た赤宇曾治部少輔(あこうづじぶのしょう)らの由利勢のほか、津軽大浦為信(おおうらためのぶ)らが実季についていた。南部信直は、これを好機として比内を制圧した(南部勢は、阿仁米内沢(あによないざわ)にまで進出するが、四月の米内沢の戦いで敗北する。同前No.一〇八九~一〇九一)。湊合戦は、北奥羽全域を巻き込んだものであった(なお、檜山城での戦いはなく、ここを本拠として、カトウド城・大森城を先端基地としていたという。古内龍夫「檜山城百五十日の籠城」『年報能代市史研究』五)。
 七月の下旬になり、戦いは実季側の勝利に終わり、実季はここから近世大名への道を歩んでゆくことになるが、戦いそのものが、惣無事令違反に問われることになった。
 八月二日付の秀吉の朱印状は、南部信直に対して為信をはじめ檜山城主の実季とともに上洛するよう命じた(資料古代・中世No.一〇九二)。また、八月二十日付で前田利家は、この秋か来春に秀吉が出羽・奥州両国の仕置のために出馬するであろうことを、南部信直に伝えた。さらに、このとき、当面の措置として、秋田豊臣直轄領としたうえで、南部・上杉氏にゆだねることを決めたとも伝えている(同前No.一〇九三)。しかし、秋田の直轄化はすぐには実施されなかった(次節参照)。これは、実季が、愛季のときから外交を担当していた湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢(すえかた))らを上洛させ(遠藤巌「安藤・秋田氏」『日本の名族』東北編I 一九八九年 新人物往来社刊)、石田三成を通じて中央工作を行ったことによるものである。
 また、八月二十日付の前田利家から信直に宛てた書状の中で、湊合戦について触れ、これを私戦とみなした(資料古代・中世No.一〇九三)。このとき、南部氏の内紛についても「津軽」が謀略に及んでいることを指摘している。この「津軽」は為信を指していることは間違いなく、為信も無事令違反に問われていたのである。そして、利家は信直に対して、秀吉の出馬により「御内存之鬱憤」が晴らされるであろうことを伝えている。つまり、為信が逆臣として征伐されることを意味していた。
 一方、為信は、天正十七年十二月二十四日付で、黄鷹(きだか)・蒼鷹(そうだか)を秀吉に献上したことに対する御礼を受けている(資料古代・中世No.一〇九九)。為信は、惣無事令違反による処罰を回避するために、の献上を行ったのである。の献上は、統一政権に対しての大名が負担すべき役として認められるものであり、とくに、秀吉の場合は、諸大名をその権力体系の中に組み込むことを意図して、の献上を自らが求めたという(長谷川成一「鷹献上奥羽大名小論」『本荘市史研究』創刊号)。そして、ここで為信に対する処罰がなされなかったことは、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置での津軽地域の在り方を大きく規定することになった(長谷川成一「津軽為信論―津軽為信と全国政権―」同編『弘前の文化財―津軽藩初期文書集成―』)。

図2.津軽(大浦)為信画像