弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第5章 中世後期

第五節 中世後期の宗教世界

二 津軽の修験道と神社

 一般に修験道とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した複合宗教のことをいう。それは、実践的な事象としては、修行者・実践者としての山伏に対する一種の帰依信仰の形をとることが多い。
 奈良時代の役小角(えんのおづの)を初祖とするこの修験道も、平安中期の聖宝を中興の祖として、以後、天皇・貴族をはじめ階層を越えた多くの崇信を集めていった。その山伏の中心道場として、紀伊半島の熊野、大峯、金峰山、出羽三山、四国の石槌山、九州の彦山などが広く世に知られるようになった。
 室町時代に入ると、その教習にも宗派的な傾向が見えはじめ、園城寺聖護院系の「本山派」と、醍醐寺三宝院系の「当山派」の両派が修験道の世界を統轄するに及んだ。
 因(ちな)みにいえば、南部領に本山派が多く、津軽領に当山派が多いのは、地域的な特性を考える上で興味深い。
 こうした宗派的特性に思いを致し、遠く古代東北の宗教世界が「坂上田村麻呂-伝教大師最澄」の天台宗を中心に彩られていたことを想い起こすとき、次のような宗教構図を描くことができるのではなかろうか。
 古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代に至り、幕府の反天台宗の宗教政策を受けて、「禅密主義」(臨済禅と真言密教の総体)の洗礼を蒙ることで、徐々に脱天台を図り、ついには室町時代の「本山派-当山派」という、広義の真言密教圏に収斂されていった、と。
 とすれば、津軽地域における中世の修験道世界とは、まさしく、鎌倉幕府の「禅密主義」の宗教政策の延長上に花開いた神秘の宗教世界ということになる。
 では、その神秘的な修験世界の実相はどうであろうか。少し検討を加えてみることにしよう。
 まず、地域内において、中世修験道に関する史料上の初見は、次の一文である。
先祖安藤太郎重光と申者有之、俗名ニ而牡鹿遠嶋先達職相預リ罷在リ、其後右親族安藤四郎此人当郡十八成浜惣右衛門先祖江家督相続ニ罷越候由之事、先達職を可奪之企有之、早ク可先例由、弘安四年四月廿日羽州羽黒山政所より預許状
(牡鹿郡十八成組給分浜見明院書出〈風土記御用書出、安永二年〉)

 これによれば、弘安四年(一二八一)、「蝦夷管領」安藤氏が牡鹿の「先達職」を預ったことになる。政治家安藤氏が宗教の世界とも深く関与していたことを示すものであり、「中世は宗教の時代」という時代像を彷彿(ほうふつ)とさせる一文である。
 この一文で看過(かんか)してならないことは、この修験は出羽三山のひとつの「羽黒修験」である点である。本山派と当山派はともに、自らの檀家居住区域を「霞」と呼ぶのに対し、この羽黒派の場合は、「檀那(場)」と呼称する。
 鎌倉時代に「蝦夷管領」として北方世界に君臨した安藤氏の権勢は、南北朝に入りますます巨大化していく。弘安四年に得ていた羽黒修験の先達職に代わって、今度はいよいよ熊野修験の世界にも手を染める。次の貞和五年(一三四九)の「陸奥国先達旦那系図注文案」は、それを如実に物語る貴重な史料である(史料七〇二)。
一、津軽三郡内しりひきの三世寺の別当ハ常陸阿闍梨房舎弟大和阿闍梨房にて候、彼引たんな皆当房へ可参候、安藤又大郎殿号下国殿、今安藤殿親父宗季(ムネスエ)と申候也、今安藤殿師季(モロスエ)と申候也、此御事共当坊へ可有御参也、

 前に、羽黒修験の場合、その檀那を「檀那場」と呼ぶと述べた。安藤氏を熊野修験の先達の檀那と伝えるこの「当山派」の世界であるにもかかわらず、依然、「檀那」の文字が見える。これは熊野修験の南北朝時代に及んでも、前代以来の羽黒系の「檀那」を踏襲して混用したためではなかろうか。
 羽黒修験をベースに始まった津軽の当山派に連なる熊野修験の世界は、「蝦夷管領」から「日ノ本将軍」に名を替えた南北朝期の安藤氏を中心に展開していく。
 南部氏との政争の末、一旦、蝦夷島への敗走を余儀なくされた安藤氏は、離島後の応仁二年(一四六八)においても、旧領津軽外が浜・宇楚里鶴子遍地の回復を、熊野那智山に次のように祈願してやまなかった(史料八四三・写真225)。

写真225 安藤師季願文

奉籠
  熊野那智山願書之事
右意趣者、奥州下国弓矢仁達本意、如本津軽外濱・宇楚里鶴子遍地悉安堵仕候者、重而寄進可申処実也、怨敵退散、武運長久、息災延命、子孫繁昌、殿中安穏、心中所願皆令満足、奉祈申所之願書之状如件、
  応仁弐年つちのへね二月廿八日 安東下野守師季(花押)

 これまで政教一如の態を示し続けてきた「日ノ本将軍」安東氏も、康正二年(一四五六)、湊安東惟季に秋田小鹿島に迎えられてからは、宗教的側面は消失しはじめ、武将としての性格が顕現化していく。
 そのひとつの例として、熊野先達職の所有権の移動が挙げられる。すなわち、これまで、その熊野先達職を占有してきた安藤氏は、直接的理由は不明であるが、その先達職を一五世紀の後半には手放している。
 その先達職を文明七年(一四七五)のころに所有していたのは、次の史料が物語るように良慶なる人物であった。
売渡申永代旦那之事
  合六貫文者
右件旦那者、依有用要、濱宮西重代相伝、奥州津軽道者先達伊勢阿闍梨門弟引旦那名字ニても候へ、地下にても候へ、彼先達引旦那者、何国里より参詣候共、一円ニ永代売渡申処実正也、於此旦那候て、自何方違乱煩出来候共、道遺可申候、永売渡申上者、於以後候て不可有意(異)義候、仍為後日売券之状如件、
  文明七年十二月四日                              良慶(花押)
(良慶旦那売券〈米良文書〉)

 しかも、注意すべきは、熊野御師(おし)の良慶は、「奥州津軽道先達引旦那」の権益を売却している点である。「先達引旦那」職が、経済的な売買の対象になっていたのである。
 この動きは一六世紀に入っても、勿論衰えることなく続いた。
永代売渡申候旦那事
  合四拾貫文者
右之旦那者、雖為重代相伝、依有用要、奥州津経(軽)一円、同ゑすかしま一円ニ、永実報院へ売渡申所実正也、同先達者秀圓・同慶蔵坊・同とい(土肥ヵ)の寶泉坊之引旦那等可為一円候、若、於彼旦那何方より違乱妨出来候共、本所(主ヵ)として道遣可申候、仍永売券如件、
  文亀三年十月廿四日       弾正重豊(花押)
(弾正重豊旦那売券〈米良文書〉)

 前の良慶の「旦那職」を引き継いだのであろうが、文亀三年(一五〇三)十月二十四日、熊野御師重豊が、津軽一円・夷島一円の旦那を実報院に売却しているのである。
 修験の世界に身を置く山伏の活躍は、ひとり「熊野御師」のみにとどまらない。神社の創立とその経営にも、よって力があったことは前に『津軽一統志』によって、神社造立の中に検証したところでもある。
 「蝦夷管領」安藤氏が「羽黒派」修験と「熊野派」修験の先達・旦那職であったことを前にみたが、実はその一族の阿部(安倍)吉季が、貞治年中(一三六二~六七)、岩木山神社祠官に任じられていた。岩木山神社が延暦年間(七八二~八〇六)、坂上田村麻呂を開基にして造立され、その別当寺院は百沢寺である。
 その岩木山神社に修験の世界にも君臨していた安藤氏の一族の阿部氏が祠官したことは、津軽地域における神社造営のひとつの形態を示すものとして注目される。つまり、神社の造営に当たっては、在地に伝統的に定着していた山岳信仰の行者たる山伏修験が任じられることが多かったのである。
 安倍吉季がその岩木山神社祠官に任じられる経緯を語る次の「安倍社司由緒書」は、安倍氏の山伏修験の前歴を知る文脈であるので、紹介しておきたい。
(前略)我等先祖藤崎落城之後、百沢の近所新法師村ニ隠れ、毎日岩木山神霊ヲ拝し、子孫之繁昌ヲ祈り申時に、兎角岩木大明神礼拝之為ニ、百沢村に引移り、暫住居の所、南部公より岩木大明神の祠官たるへき人を御えらみ之所、先祖と云へ、年齢と云へ、其道ニ達せる人此人ニしくハなしと、諸人進メ申ニ付、即祠官ニ命せらる、阿部左近太夫吉季と云、当社祠官の始也、毎年神供料三十貫を献せらる、是貞治年中(一三六二~一三六七)也、藤崎落城より五拾余年ニて祠官と成、(下略)
(「安倍社寺由緒書」)

 永正三年(一五〇六)に葛西頼清が建立したと伝える深浦円覚寺薬師堂の別当に任じられていたのは、次のように修験善光院であった。
間口観音深浦聖徳太子妙巧           別当 修験善光院
 初開同上(大同二年坂上田村麻呂造立)
 永正三丙寅年四月十七日 当家仕官木庭袋伊豫守頼清再興
(『津軽一統志首巻』・史料八八一)

 これは、修験が寺院と結びつく、まさに神仏習合を示す事例である。右の一文に見るように、薬師堂の前身である観音は坂上田村麻呂の造立と伝えられるものである。推測をたくましくすれば、この観音を長いこと深浦地域にひとつの信仰として伝え続けてきたのは、土着の善光院以前の山伏であったのではなかろうか。
 中世における津軽地域の寺社の世界を根底で支えてきた受け皿は、宗派以前の、ごく自然的な山岳の霊威にひかれ、それに崇敬の念を抱いた山岳修行の人々たる山伏修験であったのではなかろうか。そのベースの上に、天台宗とか真言宗という宗派的な仏教や羽黒派とか当山派や本山派という派閥的な修験が展開したと考えるのがより史実に近いと考えられる。