弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第5章 中世後期

第五節 中世後期の宗教世界

一 中世寺院の建立

 「弘前中世寺院」(第四章第三節)でみたように、中世も後期に入ると地内に定着化した土豪(どごう)層による寺社の建立が顕著になる。
 大浦盛信が亡父光信の菩提寺として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺海蔵寺をはじめとする曹洞宗寺院が陸続と地内に造立されていく。
 その代表的なものを列挙してみると、北畠具永が五本松(ごほんまつ)(現浪岡(なみおか)町)に建立した京徳寺、武田守信が堀越(ほりこし)村(現弘前(ひろさき)市)に営んだ宗徳寺津軽為信の子息と室による藤先(ふじさき)村(現藤崎(ふじさき)町)の藤先寺、乳井(にゅうい)村(現弘前市)に乳井氏造営した盛雲院、そして大浦政信が和徳(わとく)村(現弘前市)に建立した天津院以下、都合二八ヶ寺もの曹洞寺院が造立されている。
 この曹洞寺院に次いで多いのが、貞昌寺を中心とする浄土宗であり、その数は七ヶ寺に及ぶ。この浄土宗寺院も曹洞寺院と同じく、やはり在地土豪の定住化のなかで営まれたものが多い。
 現に、その初め、大光寺(だいこうじ)(平賀(ひらか)町)に岌禎を開山として建立された貞昌寺は、大浦為信の生母の法号である「桂屋貞昌大禅尼」にちなんでいた(写真220)。

写真220 『津軽一統志貞昌寺

 そのなかにあって、唯一、特異なのが、中野(浪岡町)に造営され、浪岡城北畠氏の外護を得た西光寺である。西光寺は、『法然上人行状絵図』巻四十八によれば、「石垣の金光房は(中略)、嘉禄三年(一二二七)、上人の門弟を国々へつかわされし時陸奥国に下向。ついにかしこにて入滅」というように、法然の高足金光上人が奥州地方に念仏門を伝道するなかで、建立されたものである(写真221)。その意味で、浄土宗七ヶ寺のなかでは、少し性格を異にするものとして注意される。

写真221 金光上人坐像

 更に浄土宗に次ぐのが浄土真宗の寺院で、油川(あぶらかわ)(青森(あおもり)市)に建立された円明寺法源寺、坪見(岩木(いわき)町)の真教寺および一町田(岩木町)の専徳寺の四ヶ寺である。
 これらの浄土真宗寺院は、前記浄土宗西光寺と、布教伝道の僧(開山)が建立の背景になっているという点では類似しているが、その建立の背景には巨大でかなり組織的な教団が存在していた点で、大きく異なる。その浄土真宗寺院の造営について、近年の研究をもとに紹介してみることにしよう。
 実は、この四ヵ寺は、それぞれが単独で津軽地域に布教したのではなく、その背後には、かの蓮如率いる本願寺教団があったのである。文明三年(一四七一)越前国吉崎御坊を建立した蓮如(写真222)は、弟子を蝦夷(えぞ)・北奥地域に派遣して、組織的な教団拡張を図った。この北辺布教の拠点となったのが、他でもなく、九州出身の俗名菊池武弘(出家名弘賢)であった。蓮如のもとで出家した弘賢は、文明三年、法門弘通という至上命令を受け、奥羽・夷地へと向かい、明応八年(一四九九)、「夷地払前上国」に「浄願寺」を建立した。

写真222 蓮如上人坐像

 この「夷浄願寺」を拠点にして、前の津軽地域の四ヵ寺も造営されていったのである。
 油川に明応八年(一四九九)、念西坊宗時によって建立された円明寺は、蓮如の命に基づきながらも、「夷浄願寺」のネットワークのなかで布教伝道を展開した。その点、同じく油川に建立された法源寺も同列であり、蓮如の直弟子敬了が「夷浄願寺」で「仏教之真如を熟得」したのち、文明十三年(一四八一)の開基に及んだのであった。
 この一五世紀の末葉の油川は、「日ノ本将軍」安藤氏の従前の拠点十三湊に代わって、奥大道の終着点であると同時に、蝦夷渡航の拠点ともなった、まさに北方の一大港湾都市であった。この交流と交通の要衡の地油川に、円明寺法源寺が、蓮如による本願寺教団の北方布教の一環として造営されたのである。
 戦国都市大浦郊外の一町田と坪見(岩木町)に、各々造立された専徳寺真教寺も、「夷浄願寺」と深くかかわりながら、蓮如本願寺教団の教線拡大のなかに位置づけられていた。
 天文元年(一五三二)、誓円を開基として営まれた専徳寺であるが、その誓円とは「夷浄願寺」を開いた弘賢の弟であり、兄弟ともに師蓮如の命を受け、北方世界に弘通(ぐつう)した同朋でもあった。「専徳寺由緒書」の次の一文は、その辺の事情を余すところなく伝えている。「原子村居住仕、浄願寺建立仕、其後、秋田久保田表江右浄願寺引移建立仕、兄弟共同所ニ罷有候處、享禄元子年、御召ニ寄、誓圓儀、御当国鼻和郡大浦御城辺一丁田村江住居」と。
 一方の天文十九年(一五五〇)に坪見に営まれた真教寺も、『証如上人日記』によると、「夷浄願寺」や出羽専称寺、男鹿西善寺とともに奥羽の「斎相伴衆寺院」であった。真教寺の開基の浄理は、甲斐武田の家臣安田与右衛門武貞の弟と伝え、出家して本願寺の実如・証如に仕えるなかで、北方伝道の命を受けて、坪見に一宇を建立したのであった。
 前の円明寺と法願寺のよる油川が当時の港湾都市であったと同様に、専徳寺真教寺のたたずむ大浦(おおうら)も、糠部南部氏津軽支配の拠点の政治都市であった。
 この政都大浦には、浄土真宗以外にも、教団の拡張が伸びていた。天文二年(一五三三)、京都本満寺の日尋が開いた賀田(よした)村の日蓮宗寺院の法立寺がそれである(写真223)。

写真223 『津軽一統志法立寺

 その造立事情を『新撰陸奥国誌』はこう伝える。「当寺開基日尋は本山開祖日秀か八代の法孫なり本満寺の衆徒なり、故有て擯せられ、其罪を補として、松前に蟄し法華寺立後、当郡に来り、天文二癸巳年、鼻和吉田村(中略)に一宇を立、法立寺と云」と。
 神秘のヴェールに包まれることの多い法立寺であるが、日尋が京都の本寺から一時追放されたのち、北方弘通の一環として、法立寺の建立がなったと、寺伝では伝える。
 この日尋は、日蓮宗僧として、鎌倉時代の宗祖日蓮の高弟日持をこの上なく追慕した結果の北方布教とも伝えられる。
 実は、この法立寺には日持の開基伝承も伝わり、その真偽のほどが、宗門の内外において常に問題とされて今日に至っている。そもそも日持とはこんな人物である。駿河国(するがのくに)(今の静岡県)松野の出身で、師日蓮(一二二二~八二)の七回忌に師の像を池上本門寺(東京都大田区池上)に安置し、十三回忌を修した翌永仁三年(一二九五)、海外布教を志して奥州から蝦夷地に渡ったとされる(写真224)。

写真224 法立寺縁起

 今日、この日持の北奥・渡道を史実とみるか、単なる伝説とするかをめぐっては両論が併存し、定かではない。なにせ、両論を決定付ける十分な客観的な史料がないのである。若干の遺物があっても、それは後世に仮託(かたく)して作られたものであることが多く、今一つ信憑(しんぴょう)性に欠ける。それゆえ、日持の北奥・渡道を史実とするか伝説とするかの際、安易な感情論は避けなければならない。当時の直接的な史料がないのであるから、冷静な傍証を積み重ねるしか、その解決の道はないのである。
 まず、北奥・渡道の際の交通問題である。日持の北奥・渡道に先立つ弘安三年(一二八〇)、南は九州に至るまで念仏札を配る「賦算(ふさん)遊行」をしていた時宗の開祖一遍智真(いっぺんちしん)(一二三九~八九)が、祖父・河野通信墳墓を詣ずべく、奥州江刺(えさし)郡(今の岩手県北上市)にまで下行している。
 この遊行僧の一遍は、蝦夷社会の江刺郡以北に巡錫の道をとることはなかった。だが、この一遍の布教状況の一事をもって、日持の北奥・渡道が交通的に不可能であったとするのは、はなはだ早計である。なぜなら、奈良朝期の「渡嶋蝦夷」と古代律令国家とのかかわり(『日本書紀』)はもとより、平安後期の頃には、道南と北奥地域に共通分布する「擦文文化圏」に端的に示されるように、平泉と蝦夷地との交流が日常茶飯事と化していた。『今昔物語集』にみる安倍頼時の渡道は、津軽海峡を挟む津軽と夷島との交通を文献的に証明する一大事象である。
 鎌倉時代に至っては、罪人の追放・流刑という形での渡道も加わり、そこには「渡党」という一定の和人集団が形成されていた。
 このような、夷島と津軽との交流を、十三湊を拠点とする「蝦夷管領」安藤氏は、幕府の現地執行者として、また蝦夷社会の血を引くひとりとして、眼のあたりにしていた。
 こうした交通・交流史的な背景を考えるとき、日持の北奥・渡道はいよいよ現実味を帯びてくる。
 次に考慮すべきことは、日持の北奥・渡道の仏教史的背景ともいうべき、永仁三年の頃の北方地域における仏教受容の状況である。個別に具体例を挙げると、浄土宗の場合、法然の高足、石垣金光上人の北方布教がある。
 浄土真宗にあっても、親鸞(しんらん)(一一七三~一二六二)の門弟の如信・無為子・唯信・是信・本願らが出身地の東北地方に弘通(ぐつう)したり、寺院を造営していた(『親鸞聖人門弟交名牒』)。
 曹洞宗もやはり、鎌倉中期には玉泉寺の了然法明が羽黒山方面に教化していたといわれる。
 こうした各宗派の北方布教は、いずれも岩手県の北上市あたりをその北限にしていたが、既述の交易・交通状況から推して、日持がこの北限を更に北進させて北奥・渡道する背景は、これまた十分に存在していたとみてよいであろう。
 次いで考えなければならないのは、日持自身が属する日蓮宗教団の内部の問題である。日持が北奥・渡道したとされる永仁三年の二年後には、宮城県角田(かくだ)市に日義尼の手になる妙音寺が建立されている。また、日持が一時は兄事した日興との不仲関係も、日持を布教の旅に追いやる教団上の背景として無視できない。事実、この日興のよる富士門流は、日目・日尊などを通して、常に日持と競合する布教伝道を展開していたのである。日持は、当時の教団のなかにあって、日興から疎外される立場にあったのであり、その境涯は「疎外に泣く、宗門の義経」のような存在であった。この「宗門の義経」を、室町時代の日尋はこよなく追慕し、北方伝道となり、法立寺の造立と、結実したのである。