弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第5章 中世後期

第四節 戦国津軽とその終焉

五 戦国動乱の激化と城館群

(四)中世城館のネットワーク

大浦城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜津軽平野を結ぶ要地で、一五世紀においてはしばしば安藤勢と南部勢との激戦の場になっている。戦国時代末期に大浦為信南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力構成員として活躍したことがうかがえる。
 そのようなことを念頭に入れながら東目屋地区の城館跡についてみていくと、注目されるのが「十二人屋形城衆」の伝承である。十二人屋形城衆とは近世の「関家文書」などに見えるもので、一五世紀中葉の文明年中(一四六九~八七)、南部氏の家人十二将が津軽鼻和郡に派遣され、要所に配属されたというものである。記録に伝えられる「十二人屋形城衆」の名は、桜庭太郎左衛門(さくらばたろうざえもん)・中畑惣助(なかはたそうすけ)・村市与七郎(むらいちよしちろう)・大秋彦次郎(おおしゅうひこじろう)・高杉孫二郎(たかすぎまごじろう)・新岡兵助(にいおかへいすけ)・神三右衛門(じんさうえもん)・志戸沢与五郎(しとざわよごろう)・蒔苗新兵衛・町田孫十郎・玉野井五郎兵衛・関惣右衛門の十二人である。関惣右衛門は「城代」として、深浦町の関(折曽の関)と東目屋の国吉(くによし)に居館を持っていたと伝えられている(資料編1五一四頁 図35)。また『津軽一統志』第七によると、東目屋地区には少なくとも桜庭(さくらば)・国吉・黒土(くろつち)・中畑(なかはた)の四つの城館跡戦国時代には存在していたようである。
 この東目屋地区の中心となる城館は、関氏の居館とされる国吉館といえるであろう。この国吉館跡がこの地域の中心となり、その区域内の東西の端には関所(木戸)のような性格をもった城館として、東側に高野館跡、西側に番館(ばんだて)跡が作られたものと考えられる。
 高野館跡は東目屋盆地の入口に当たり、割山から南に延びる尾根の先端を空堀で掘り切った遺構が確認され、切り通し道となっている。しかしその他には遺構は確認されないことから、館跡であったのかの判定は難しいが、いずれにしても街道を押さえる施設であった可能性が高い。番館跡も現地踏査では曲輪らしい遺構の確認はできなかったが、空堀と思われる遺構は確認できた。そのようなことから考え、この二つの館跡が関所(木戸)のような役割を担っていたと思われる。そしてその中に、坂本館跡黒土館跡、吉川(よしかわ)館跡、平山(ひらやま)館跡が存在していたと考えられる。そして、国吉館といった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも考えられてくるのである(図73)。

図73 東目屋地区の城館