弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第5章 中世後期

第四節 戦国津軽とその終焉

五 戦国動乱の激化と城館群

(四)中世城館のネットワーク

種里城跡を中心とした城館群は、川崎城をはじめ、赤石川流域を中心とした山の麓に設けられているという特徴が挙げられる。赤石川の水源部分に当たる西側には種里城跡が造られている。そして為信が誕生したとされる赤石城跡をはじめとして、日照田(ひでりた)館跡・館前(たてまえ)館跡・川崎(かわさき)館跡などが連なる形で配置されている(写真213・図67)。

写真213 種里城跡周辺航空写真


図67 種里城と周辺の城館群(50,000分の1)

 これらの城館跡の関係についてはいまだに不明な部分もあるが、種里城跡が機能していた時期にこれらの城館も機能していたのではないかと考えることができる。種里八幡宮第十四代神官奈良出雲(ならいずも)(明和から天明年間にかけて在任)が『累代家記』に記した「信公御治世記」には、「大浦信濃守公海岸ヘ御通行ノ節 館前ノ城主対馬某折々信公ヲ狙撃ス故ニ信公□々軍勢ヲ遣シ攻ムレ共堀深キガ故ニ容易ニ進ムモノナシ依テ(略)」ということが記されている。要約するならば、信が海岸に抜けようとしたところ館前主に狙撃されるので攻撃したが、堀が深くて攻めきれない、このため西海道金沢目内崎(めないざき)を通ったというものである。このことからもわかるように、種里城跡を中心としたネットワークという視点で整備されていれば進軍が可能だったと考えられるが、城館配置のネットワークが未整備であったために、このような状況となったものと推測される。
 日照田館跡は内陸に位置する種里城と日本海との中間で、日本海側を望むことができる地点に位置していることから、何らかの役割をもった城館跡であったことは容易に理解することができる。そしてこの館跡は為信や信枚が生まれたという伝承もあることから「嫡子(ちゃくし)館」とも呼ばれており、重要な役割を担っていた館跡であったと考えられる。さらに種里城跡から北北東に二キロメートルのところには、地元の人が「将軍塚」と呼んでいる場所があり、その場所と道路を挟んだ西側には「見張り屋敷跡」と呼ばれる小高い山が作られている。これら将軍塚と呼ばれる「塚」や「屋敷跡」と呼ばれている場所は、種里城の外郭部分の木戸のような役割を持った防御施設であった可能性が強い。
 街道としては、種里から小森(現鰺ヶ沢町大字小森町)→恩沢→黒森→松代(現鯵ヶ沢町大字松代町)→岳(現岩木町大字常盤野)→百沢(現岩木町大字百沢)→相馬(現相馬村)→城(現平賀町大字)か石川(現弘前市石川)という中世の街道ルートがあったことが伝えられている。