弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第5章 中世後期

第四節 戦国津軽とその終焉

四 戦国期津軽の農村と都市と城館跡

(二)大浦氏の城と城下町の流れ

明応元年(一四九二)、現在の鰺ヶ沢種里町に西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏に備えて、久慈南部氏信濃守種里城を築いたことが文献史料(史料八六〇)などで確認されている。鯵ヶ沢種里周辺には、板碑や五輪塔などが散在しており、そのようなことから信が種里に入る以前の段階には、この地は安藤氏が掌握していた地域であったことがうかがえる。
 種里城跡は現在でも中世城館跡の面影を色濃く残している。種里城の規模や性格は、今までは不明な部分も多かったが、平成四年(一九九二)から種里城跡の中心部である「主曲輪(しゅぐるわ)」の発掘調査が行われ、その調査によって、掘立柱建物跡(図61)などが検出されており、掘立柱建物跡の中には信などが居住したと考えられる「主殿(しゅでん)」のような建物跡なども検出されているようである。

図61 鯵ヶ沢種里城跡検出掘立柱建物跡の平面図

 その北西側に位置するⅡa曲輪は、斜面に何段もの腰曲輪が設けられ、縦土塁状の施設と堀割りが組み合わされた通路などが作られている。このように、かなり防御を意識し、また整地部分が広く設けられていることなどから、家臣などの居住した空間であった可能性が考えられる。その南西に位置するⅡb曲輪は家臣の居住空間というよりも、どちらかというと領主(信)が日常生活を送っていた居住空間であったと考えることができる(図62)。

図62 種里城跡縄張り図(鯵ヶ沢町)

 また、伝承として残っていた「伝侍屋敷」と呼ばれる主曲輪の沢を挟んだ北東側にも、中世の城館施設がみごとな形で残されている。その「伝侍屋敷」の東側には種里の町が隣接した形で存在している。そして、その集落の「守り神」とされている「八幡宮」が、実は種里城内に入るための出入り口(木戸)の役割も担っていたことも明らかとなってきた。八幡宮を通り、種里城内に入る入口の五〇メートル手前から、右側斜面を加工して威容を保たせようとしているようすもうかがえ、城内に入る入口部分にも小さな平場を何段も設け、入って来るものを意識している。この入口から入った手前の曲輪は、有事の際には村(町)人が逃げ込むための曲輪であった可能性も考えられる。
 宗教施設は種里城跡の南側、御廟所の対岸に位置する大柳(おおやなぎ)地区にその遺構が良好な形で残されている。現在確認できるものだけでも方形に区切った区画が三区画あり、これらの遺構は寺院が建てられていた可能性が極めて高い。この区画の手前は「上門前(かみもんぜん)」「下門前(しももんぜん)」と地元の人たちが呼んでおり、「海蔵寺(かいぞうじ)」や「明教寺(みょうきょうじ)」などの宗教施設が存在していた可能性をさらに裏づけるものである。
 種里城跡の大きな特徴としては、宗教施設の空間にかなりの面積を意識的に設けているということがいえる。さらにこの宗教空間の南側山頂部には巨大な土塁と横堀(写真202)が作られている。この土塁と横堀は沢に対して作られたもので、非常に軍事的なものであると同時に、種里城の城域を明確にしている。

写真202 種里城の外郭土塁と堀跡

 次に城と町とのかかわりでは近世の絵図面(写真203)や、明治期に書かれた地籍図で復元をしてみると、かなり小さなものではあったが「町」が意識的に作られていた可能性が考えられてくる。町は「八幡宮」を中心として作られた可能性が考えられる。八幡宮に入る参道がまず直線に作られ、その道と並行するように短冊形地割が南側には三筆、北側には八筆書かれている。さらにその短冊形地割の北側にも不正形ながら短冊形地割がみられることから、さほど大きくはないが戦国城下町の前身となる町が、すでにこの種里城周辺に作られていた可能性が考えられるのである。

写真203 種里城跡と周辺の近世絵図面