弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第5章 中世後期

第三節 南北交易と「境界地域」津軽

一 十三湊と津軽

それでは一六世紀に十三湊に代わりうる湊は、どこに存在したのであろうか。
 油川城跡では、浪岡城跡で出土したもの(写真171)と同類の棹秤(さおばかり)の錘(おもり)など、城館ながら商業関連の遺物が多いことから、この地は外浜における経済的拠点の可能性が高い。また、西浜と外浜の物資が集積し、津軽平野部と結節する地点に浪岡が位置する。そして、これまでの発掘調査によって出土している遺物からみて、浪岡城跡は一六世紀を代表する遺跡といえ、ここからは一二世紀後半から一七世紀初頭までの、長期間にわたる陶磁器が出土している。特に一六世紀段階の陶磁器については、中国製品・日本製品を問わず、津軽地域で最も多く出土しており、中世段階で常に交通の要衝地であったことが理解できる。

写真171 浪岡城跡出土棹秤の錘

 ただし、北日本全域では北海道上ノ国(かみのくに)町の勝山(かつやま)館の出土量が多いことから、上ノ国から外浜、そして浪岡に運ばれている可能性もある。『新羅之記録』によると、永禄三年(一五六〇)に勝山館から松前に移った蠣崎(かきざき)氏が浪岡御所北畠氏から「潮潟野田玉川」の地を船着き場として与えられたという記録がある(史料九四八)。この場所は現在の青森市後潟(うしろがた)付近と考えられることから、一六世紀中ごろには外浜を中心に、蝦夷地と津軽地域を結ぶ交易の進展があったと想定される。
 さらに、下北半島の川内町の鞍越(くらこし)遺跡出土遺物、野辺地町周辺の表採品に一六世紀から一七世紀初頭の陶磁器が多く、一六世紀の段階で陸奥湾を広域につなぐ交易ルートが存在したことも確認できる。また、一六世紀末から一七世紀初めの遺物を大量に出土した東通(ひがしどおり)村浜通(はまどおり)遺跡の状況をみると、日本海から津軽海峡を横断し、尻屋(しりや)崎を南下する太平洋岸までの海運の経路を想定することができ、八戸市根城や南部諸城館に供給された一六世紀以降の陶磁器も、陸奥湾経由や太平洋岸経路のような海路を経由して供給されていたと考えることもできる。
そのなかでも、拠点的湊と推定されるのが大浜(おおはま)(現在の青森市油川(あぶらかわ)周辺)である。現在の海岸から一・五キロメートル内陸に位置する油川城の表採資料は、一六世紀を代表する陶磁器が多く、なかでも朝鮮産の陶磁器にみるべきものがある。寛永三年(一六二六)の青森派立(開港)に当たって、油川(大浜)の住人側は既存の権益が侵されることに対する申し立てをしているように、旧来から港湾都市として確立していたと考えられる。
 このように一六世紀の陶磁器の動きをみると、主体となる交易港は十三湊ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏を後ろ盾とする大浜の地を想定でき、陸奥湾沿岸や太平洋岸に至る広域の交易経路が確立していた印象を受ける。また日本海域では十三湊に代わって、鰺ヶ沢町の種里(たねさと)城を中心とした地域や深浦町の元城(もとしろ)などがその拠点として想定され、のちの鰺ヶ沢湊深浦湊に連続するものと考えられる。