弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第4章 中世前期

第二節 鎌倉幕府の東夷成敗権と得宗領津軽

五 御内人の世界

津軽曽我氏津軽地方における所領は、文書で確認できるもののすべてが津軽平賀郡のうちにある。これらの具体的な伝領過程を以下に述べてみよう。なお叙述の便宜上、室町時代初期にまでわたることをあらかじめお断わりしておく。
 文書で補任が確認できるもののなかでは最古の所領である岩楯村(郷)(平賀町岩館付近)から見ていこう。建保七年(一二一九)に廣忠がその所職を得たことについてはすでに述べたところである。
 貞応三年(一二二四)には執権代替り(北条義時から泰時へ)に伴って、惟重がこの地の地頭代職を改めて安堵されているから(史料五五七)、それ以前に廣忠から惟重へと職が譲渡されていたらしい。
 嘉禎二年(一二三六)の譲状で、惟重は妻「伊豆田所女房」に一期分としてこの地頭代職を譲渡し、翌年安堵された(史料五六一、未来領主は子光弘)。ただ当地の所当の請文は、二年後の延応元年の段階で光弘が出しているので(史料五六四・五六五)、実際の経営は光弘が代行していたのかもしれない。光弘についてはこの地の安堵の史料が確認できないので、あるいはこの二年の間に光弘に譲渡・安堵されていた可能性もある。
 またこのころ岩楯村の一部には、なお廣忠未亡人の岩楯尼が、「亡夫墓堂燈油仏聖田」に関する権利を留保している地があったようである(史料五六九・五七〇)。
 文永元年(一二六四)には、おそらく一期分(いちごぶん)としての光弘後家尼への譲渡が安堵されているが(史料五八〇)、光弘の子の泰光への譲渡・安堵の時期はわからない。泰光は嘉元二年(一三〇四)の譲状によって嫡子光頼に譲渡し、翌年、その行為について得宗北条貞時から外題安堵を受けている(史料五九六)。
 光頼は嘉暦元年(一三二六)、安藤の乱の激戦、西浜合戦(史料六二三)に出陣するに際して(嫡子資光は先年、安藤の乱の渦中で戦死)、光高に譲渡し(この譲状は現存しない)、無事帰還後の翌年、それを確認している(史料六二七)。
 元弘の乱に際して後醍醐方について奮闘した光高は、元弘四年(一三三四)二月の言上状(史料六三二・六三三)で、岩楯ほか重代相伝所領の安堵の陸奥国宣を賜(たまわ)るよう申請しているが、それはすぐには下らなかったらしい。これでは曽我一族の士気に関わる。同年五月、光頼が「正慶三年」と北朝年号(北条方)の譲状(史料六三八)をしたためて、改めて光高に譲渡したのは、それに対する抗議の意思のあらわれであろうか。
 同じころ光高は、岩楯村内にあった、曽祖父光信(光弘)の女子跡の知行も願い出たりしている(史料六五八)。しかし陸奥北畠顕家によって安堵されたのが確認できるのは、岩楯村については熊野堂燈油料田(史料六五九)だけであることから、あるいは安堵されなかったのではないかという見解も有力である。こうしたことがのちに光高を足利方に走らせる原因となったと見るのである。
 しかしこのころ勲功の賞として新たに安堵された所領も確実にあるので(史料六六四)、一概に右の安堵の存在を否定するのもいささか不安である。ただ仮に安堵されていたとしても、その不手際は歴然としているので、後醍醐方に不満を募らせたことだけは確かであろう。足利方についてからは、この地が正式に安堵されていることは確認できる(史料七〇〇・七〇一)。