弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第4章 中世前期

第二節 鎌倉幕府の東夷成敗権と得宗領津軽

五 御内人の世界

しかし資鎌倉時代末期の安藤氏の内紛(安藤の乱津軽大乱)に参戦して早世し(史料六二三に「他界」とある)、頼の他腹の子と推定される「おとはう(乙房)丸」(史料六二三、斎藤文書、遠野南部家文書・元弘三年〈一三三三〉)、すなわち「太郎高(みつたか)」(史料六三二ほか)が跡を継いだ。
 この高は建武二年(一三三五)ころ、名を貞(さだみつ)と改めている。鎌倉幕府末期の元弘の乱に際して、建武方についた高としては、北条高時の一字偏諱(へんき)であろう「高」の字を嫌ったのかもしれない。
 以後、祖父泰や兄資の名乗りである「与(余)一」を継ぎ、「与一太郎貞」(史料六六五ほか)、「与一左衛門尉」と称した。なお系と呼ばれる曽我氏の孫二郎貞(史料六五二)とは別人である。
 貞にはその置文などによって三人の子が確認される。資と同じ童名を与えられた嫡子「犬太郎」と女子「犬夜叉」、「犬熊」である(史料六九〇・六九四)。資には「いぬなりまろ」という遺児もいたが(史料六二三、貞を叔父と呼んでいる)、それにもかかわらず貞の子に犬太郎の名が与えられていることも、貞と資とを他腹の兄弟と考える根拠となっている。
 また余一資の弟かと目される人物に、余二経がいる(史料六三五)。経は貞の所領に乱入しているが、あるいは資・経とは他腹の貞系へ嫡流が移っていくことへの不満が、経をそうした行動へ走らせたのかもしれない。このことからすると、経は資が「一子」(斎藤文書、遠野南部家文書・正和二年)と呼ばれていた以後、頼と「ありわう」との間に生まれた人物である可能性が高い。
 以上の説明をわかりやすく系図化しておく(図40)。

図40 復原・曽我氏系図