弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第4章 中世前期

第二節 鎌倉幕府の東夷成敗権と得宗領津軽

三 得宗領としての津軽

秋田方面では、時頼が鎌倉への帰途、初七日・二七日・三七日と、区切りごとに唐糸の菩提を弔って、寺院を建立し仏像を安置していったと伝えられている。それぞれ図39にあるように、初七日(しょなぬか)山成就院(大館市釈迦内)・二七日(ふたなぬか)山釈迦堂明寺(秋田市旭北寺町)・三七日(みなぬか)山阿弥陀堂(現大国主神社、仙北郡西木村・写真107)に、近世の縁起が残されている。

写真107 三七日山阿弥陀堂
(秋田県西木村・現大国主神社)

 先にも触れたとおり、それぞれの内容は微妙に異なっている。『初七日山釈迦堂略縁起』『羽州秋田郡土崎湊納坂二七日山明寺御本尊釈迦如来並寺之縁起』では、唐糸は「鎌倉金沢の浜」から「空船(からぶね)」に乗せられて流され、「津軽外カ浜」へ漂着して修験者(山伏)に助けられ、その妻となっている。やがて時頼が諸国巡検の折に「津軽藤崎湊」へ立ち寄り、そこで唐糸と再会するが、唐糸は書き置きを残して「烏カ池」に身を投げてしまうとある。『三七日山阿弥陀堂略縁起』(写真108)では、時頼が「諸国執行をして天下の善悪」をみるために廻国に出たあと、唐糸は「邪婬」のいいがかりをつけられて、「空舩」に乗せられて鎌倉の海中に追放されたという。たまたま奥州津軽へ下っていた時頼が、浜辺に流れ寄せた「空舩」を見つけると、そこにすでに息絶えた唐糸が乗っていたという。また人見蕉雨の『余腍録』には、二七日山明寺を建てたのは「のしろ湊」であるともみえている。

写真108 三七日山阿弥陀堂略縁起