弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第4章 中世前期

第二節 鎌倉幕府の東夷成敗権と得宗領津軽

一 文治五年奥州合戦

これに対して平泉藤原氏側は、奥大道の交通の要衝、陸奥国伊達郡阿津賀志山(あつかしやま)(福島県国見町)に、延べ二五万人にのぼる人夫を動員して掘り上げさせたという長大な二重堀をめぐらした堅固な陣地(写真94)を築き、頑強に抵抗を試みた。史書によれば「口五丈」(写真95)とあるから、堀の幅は一五メートルという巨大なものであるが、近年の発掘調査によってこの事実は確認されている。

写真94 阿津賀志山防塁(福島県国見町)


写真95 『扶桑見聞誌記』口五丈

 さらに堀の奥の大木戸には本営が築造されたから、その労働力をあわせると延べ四〇万人は必要であったと試算されている。仮に近隣の伊達・信夫(しのぶ)・刈田(かった)三郡の成年男子五〇〇〇人を総動員したとしても、八〇日を要する大土木事業である。緊急時であることを考えると、三郡といわず奥州全域から労働力を徴発した可能性もあろう。既述した、奥州を実質的に支配していた秀衡時代の権勢の賜物(たまもの)であるともいえる。
 『吾妻鏡』によると、「頼朝の出陣を聞いて、(中略)にわかに堀を構えた」とあるが、具体的にいつこれだけの堀が築かれたのかは定かではない。「にわかに」をその文字通り受けとめれば、頼朝出陣の七月十九日以降のこととなるが、あるいはもう少し遡(さかのぼ)るかもしれない。ただ早くから準備されていたものでないことは、頼朝軍側に、この存在があらかじめ知られていなかったらしいことから間違いなかろう。
 ここは現在でも、東北縦貫自動車道・東北新幹線・東北本線・国道四号線が集中する陸地が狭まった場所で、鎌倉軍が平泉に攻め込むためには必ず通らなければならないところである。ここを守る大将軍は泰衡の異母兄西木戸太郎国衡で、国衡はこの地を通る当時の幹線道路「奥大道」をふさぐ形で本陣を構え、さらに阿津賀志山の中腹から阿武隈川の河畔までは、約三・五キロメートル(現存遺構は三キロメートル弱)にもわたって二重の堀が設けられ、交通路は完全に遮断されていた。鎌倉軍の主体は弓射騎兵であるが、馬はこの堀を越えることができないばかりか、段丘の高いところに立った奥州軍から丸見えの状態である。戦いは圧倒的に奥州軍に有利のはずであった。
 当時の戦闘は、『今昔物語集』によって知られるような、それまでの古典的な戦闘、すなわち原野に敵を迎え撃って一騎打ちにより弓馬の技量を比べるというようなものはすでに終わりを告げ、機動性に富んだ騎射隊と集団的な徒歩(かち)立ちの軍勢とを使い分ける戦闘形態になっていた。よく知られているところでは、一ノ谷の合戦をその典型例として挙げることができよう。
 その萌芽は、早くこの奥州に見ることができる。たとえば前九年合戦安倍氏の城柵をめぐる攻防戦では、僧良照の守る小松柵の攻防について、『陸奥話記』に「騎兵をもって要害を囲み、歩卒をもって城柵を攻む」と述べられているのである(史料四五〇)。歩兵による集団戦法がここにすでに見られることが注目される。
 こうした戦闘形態がとられるようになると、当然のことながら大規模な土木工事によって交通を遮断する戦法が好んで用いられるようになった。阿津賀志山の二重堀も、まさにこうした戦法の典型的な事例なのである。
 このような防塁を中心とする城柵は、安倍氏以来の伝統であるといわれる。たとえば前九年合戦を物語る『陸奥話記』には、安倍貞任最期の舞台となった厨川柵(盛岡市・写真96)について、「西北は大沢、二面は河をへだつ。川の岸三丈あまり、壁立(へきりゅう)途なし」「河と柵の間、また隍(ほり)を掘る」とあって、九メートルを超える河岸段丘上という立地といい、川と柵との間に長さはともかくとして堀を掘ることといい、阿津賀志山防塁とたいへんよく似ている。また交通の遮断という戦法からみれば、やはり『陸奥話記』に、衣川関について、「一丸の泥をもって関を封ぜば、誰かあえて破るものあらんや」「もとより隘路阻嶮(わいろけんそ)、崤函(こうかん)の固めにも過ぎたり。一人瞼を拒げば、万夫も進むこと能わず」(史料四五二)とあって、ここには堀こそないものの、関の前には衣川が流れ幹線路が通じる陸が狭まったところに城柵を築く点も、やはり阿津賀志山の立地とよく似ている。

写真96 厨川柵跡(岩手県盛岡市)