弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第4章 中世前期

第一節 中世的北方世界の開幕

四 中世前期の交易

経済的進展をうながした要因の一つに、銭貨の流布がある。平安末期・治承(じしょう)三年(一一七九)には『百練抄(ひゃくれんしょう)』(編者不明、平安から鎌倉時代の京都の事情に関する史料)に「銭の病」という言葉が出てくるように、日宋貿易の拡大は列島各地に宋銭を中心とする銭貨を急速に流布させた。その実態はいまだ不明な点も多いが、税の納入や経済的媒介として使用された「銭」の存在は中世を象徴する遺物である。
 とくに一三世紀前半・暦仁(りゃくにん)二年(一二三九)の段階で、鎌倉幕府が白河関以東の銭貨流布を禁止する事例(史料五六二・五六三)からも、京都から遠く離れた陸奥国においてさえ相当量の銭貨流通があったことを示している。
 この現象は津軽地域においても例外ではなく、一一世紀から一二世紀の古代集落からもわずかながら銭貨の出土が認められることでも理解でき、一三世紀以降の遺跡と考えられる場所からは、数千枚・数万枚の銭貨が一括して出土することからも追認できる(写真85)。

写真85 浪岡城跡出土の埋納銭

 弘前市域の遺跡でも、中崎館遺跡では元豊通宝(げんぽうつうほう)(北宋、一〇七八年初鋳)・景祐通宝(けいゆうつうほう)(北宋、一〇二四年初鋳)など五枚、荼毘館(だびだて)遺跡では煕寧元宝(きねいげんぽう)(北宋、一〇六八年初鋳)など三枚、独狐(とっこ)遺跡では開元通宝(かいげんつうほう)(唐、六二一年初鋳)・太平通宝(たいへいつうほう)(北宋、九七六年初鋳)・至和元宝(しわげんぽう)(北宋、一〇五四年初鋳)・元豊通宝・政和通宝(せいわつうほう)(北宋、一一一一年初鋳)・永楽通宝(えいらくつうほう)(明、一四〇八年初鋳)・祥符通宝(しょうふつうほう)(北宋、一〇〇八年初鋳)・淳煕元宝(じゅんきげんぽう)(南宋、一一七四年初鋳)など九枚(寛永通宝を除く)、境関(さかいぜき)館遺跡では永楽通宝を最新銭とする六八二枚が出土しており、中世遺跡の発掘調査では意外と銭貨の発見例が多い。
 遺構などからまとまって出土する場合は、宗教的な観点から意図的に埋めたと考えられる事例もあるが、中崎館・荼毘館・独狐遺跡などの発見事例は、境関館遺跡の井戸跡出土例(写真86)を除けばほとんどが遺構を確認した面と同じ、当時の生活面からのものであり、日常生活のなかで落としたモノ、あるいは忘れたモノが出土したと考えることができる。ところが現在の貨幣観念では説明のつかない銭貨の出土状況もある。

写真86 弘前市境関館井戸跡出土の銭貨

 そのことを特徴的に示す銭貨出土状態が一括埋納(まいのう)銭である。弘前市乳井(にゅうい)神社境内と推定される乳井出土銭(昭和三十二年〈一九五七〉七月二日発見)は、至大通宝(しだいつうほう)(元、一三一〇年初鋳)を最新銭とする総数五六一一枚がまとまって出土した。同じような埋納年代を示す平賀町館山(たてやま)・青森市奥内(おくない)・尾上町猿賀(さるか)をみても神社領域に近接して発見されるという特徴が存在する。このような事例は従来、中世前半期において地域の拠点的施設であった寺社およびそれと付随する豪族勢力が、戦乱などに備えて備蓄した銭貨であると考えられてきた。
 たしかに通常の貨幣感覚からすると、五〇〇〇枚から一万枚以上の銭貨を意図的に土のなかに埋めておく状況を理解するためには、備蓄という考え方が一般的である。ところが、このような銭貨の出土例は全国いたるところで認められ、備蓄した銭貨を忘れたため後世の人によって発見されたとすると、あまりに事例の多いことがかえって不思議でもある。銭貨とともに発見された石川県鶴来町清水町の木箱には、神仏に奉納したという「佛供箱 金釼宮行所方 天文廿四年十二月日」の文言も認められ、精神的・宗教的な意図のもとに埋納した事例ではないかと考えることもできる。
 乳井埋納銭を調査した成田末五郎は、『東奥文化第一一号』に「乳井神社前成田与一氏宅地内で、電柱工事中発見されたものである。隣地成田勘次郎氏宅地との境界近くで、地下四五糎(センチメートル)の深さに、縦一三、五糎、横四七糎、高一六、八糎の腐朽した木箱(材は杉)の中に一〇〇個づゝ藁縄でつなぎ、ならべたまゝ錆で固着していた。目方凡そ二一瓩(キログラム)あつた。元来このあたり一帯は、昔乳井毘沙門堂(乳井神社の前身)の別当、乳井福王寺(ふくおうじ)址である。」と報告し、乳井福王寺と関連があるとみている(写真87)。

写真87 乳井埋納銭

 僧栄秀譲状から始まる福王寺の位置づけは、津軽のなかでも別格の扱いであり、一四世紀中ごろまでの文献上での動きをみると、福王寺と関連したものと考えるのが普通である。寺社勢力のある場所は経済的にも地域拠点となり得る場所であり、それゆえに銭貨が集積する一種の都市的な場面を想定できる。
 問題は銭貨の埋納年代を一四世紀代とすると、その後になぜ再利用のために掘り上げなかったのかということである。どうも埋められた場所は社寺境内の中核地域ではなく、供僧たちが居住する門前集落「寺内」とされる場所であったらしい。つまり寺社領域が拡大するに伴い、その土地を占有することに対する神仏への奉納のために、これらの銭貨が埋められたと考えることもできるのである。
 このように、中世段階に至って銭貨の出土が多くみられることは大きな特徴であり、各種の産業の発展によって経済的行為の媒介である銭貨が必要となり、津軽地域も列島的な経済活動のなかに取り込まれていったと思われる。とくに中世前期に流通した銭貨の大部分は中国で鋳造された銭貨であり、自立的に自国通貨を有しなかった中世社会は、東アジア経済圏の一地域として、国際的交流のなかから人々の生活が成立していたのである。