弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第3章 古代蝦夷の時代

第四節 考古学からみた平安時代の津軽

四 擦文文化との交流

カマドをもつ竪穴住居跡から出土する本州の擦文土器が土師器を伴うことは、東通村稲崎遺跡や市浦村赤坂遺跡で早く昭和二十年代から知られていたが、近年次第に類例は増加しており、青森市沢田A、同三内、蓬田村小館、同蓬田大館、碇ケ関村古館、中里町中里城跡、弘前市早稲田等の諸遺跡で確認されている。本州においては、米をはじめとする穀類の存在が知られており、この地域で擦文土器を製作・使用した人々も農耕を主体とする生産活動に携わった可能性が強いとすると、交易の仲介者としての役割を担いながらも、北海道地方とは質的に異なる生活様式を営んでいたことが考えられる。本来の擦文文化とは、似て非なる第三の文化といえるのかもしれない。浪岡町野尻(4)遺跡では、土師器的な特徴をもつ土器を下地にして馬の線刻画を描き、擦文土器の特徴である刻文(こくもん)を施した、いわば両者の要素を併せもった土器が出土している(写真58)。この事例は、平安時代における津軽地方の馬産の問題とともに、土師器・擦文のいずれにも属さない文化を担った人々が存在した可能性を示唆するものと評価できよう。

写真58 馬の線刻画の描かれた土師器(浪岡町野尻(4)遺跡出土)

 また、口縁部や頸部に横走平行沈線文をめぐらす深鉢は、初期の段階から現在のところ終末期とされる段階まで認められるので、独自の変遷が辿(たど)れるのかもしれない。弘前市でも一〇世紀後半から一一世紀代を盛期とする早稲田遺跡の竪穴住居跡、焼土遺構、溝跡、一一世紀代を主体とする荼毘館(だびだて)遺跡第一〇一号竪穴住居跡境関館遺跡、あるいは後に触れる中崎館遺跡でもこの類の土器が出土している。なお、終末期に位置付けられる横走沈線文土器の分布は、津軽地方から北海道西南部にほぼ限定されており、この地域における独自の交流関係がうかがわれる(図28)。

図28 後半期~終末期の擦文土器

 北海道地方における擦文文化は、前半期には道央部に分布の中心がみられたが、後半期になると道東部や道西北部に分布の中心が移り、集団の移動が起こったことも考えられている。これは、おそらく交易物資としての資源をより安定的に自らの手で確保するための生計戦略であったと推定される。北海道地方と津軽地方の交流関係は、九世紀後半から一〇世紀後半の操業とされる五所川原須恵器窯跡群から供給されたと考えられる製品が北海道の中央部(六遺跡)を中心に西北部(三遺跡)、南部(三遺跡)および東部(一遺跡)の擦文文化の遺跡で出土していること、さらに鉄は、本州側からの最も重要な交昜品のひとつであったが、一〇世紀中葉から一一世紀に津軽地方の岩木山麓で大規模な鉄生産が行われていたことから、米代川流域の製鉄遺跡とともに擦文社会への供給が目的であったことを想定できるであろう。一〇世紀後半~一一世紀前半の鯵ケ沢町杢沢(もくさわ)遺跡では、ごくわずかではあるが擦文土器が三点、同大館森山遺跡では一点出土している。