弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(古代・中世)

新編弘前市史 通史編1(古代・中世)

第3章 古代蝦夷の時代

第二節 津軽の蝦夷と阿倍比羅夫の遠征

四 阿倍比羅夫「北征」

日本書紀』の斉明天皇紀には、長短あわせて一一ヵ条の遠征記事が載せられている(史料二〇~三〇)。一見して明らかなように、それらのうちいくつかはかなり似通った記事であり、同事重出記事である可能性もしばしば指摘されている。比羅夫の北方航海に直接関わるのは、史料二二・二三・二五・二七~三〇の七ヵ条であるが、このなかにも同事重出記事である可能性のあるものがある。そこで比羅夫は実際にはいったい何回遠征したのかが問題となる。
 そもそも『日本書紀』では、大和政権による東北経営として、日本海側を中心とした阿倍比羅夫の、「三度」にわたる「北征」のみが大々的に採り上げられている。これは『日本書紀』編纂に際して、阿倍氏に伝えられた家記が採用されたためであるが、その家記が、当然のこととはいえ、自家の功績のみをいささか誇張していることと、説話的な要素を多分に含んでいること、あるいは官府の記録と齟齬(そご)していると思われる箇所があることなどにより、『日本書紀』の記述に、重複ないし混乱があると解される部分が生じてしまい、これまでも多くの学者がその解釈をめぐって長い論争を繰り返してきた。記述の重複を認めると、三度という遠征回数について疑いが生じ、一度ないし二度しか遠征していないということにもなりかねない。
 実は当時の大和政権による東北経営が、阿倍比羅夫による、日本海側からの征討だけではなかったことは、同じころ、多くの蝦夷が都に来朝していること、『常陸国風土記』『続日本紀』といった他の史料に、同じころの太平洋側の蝦夷の服属をも思わせる記述があること、『日本書紀斉明天皇五年三月条(史料二五)に、東北経営の論功行賞として、比羅夫とならんで、太平洋側の「道奥国司(みちのおくのくにのつかさ)」の叙位も同時に記載されていること、これらの点から明らかである。
 では比羅夫北征の実像はどうであったのか。このことを考えるために、まず関係記事のなかで主体となる斉明四年(史料二二・二三)・同五年(史料二五)・同六年(史料二七)について、その内容をわかりやすく現代語にしてみよう。

写真29『日本書紀』巻之十二 斉明天皇4年4月条の比羅夫北征記事
目録を見る 精細画像で見る

 
 ・斉明天皇四年四月(史料二二・写真29)
 阿陪臣が軍船一八〇艘を率いて蝦夷を伐(う)った。齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)の蝦夷は怖れて降伏した。船列を整えて齶田浦に進むと、齶田蝦夷の恩荷(おが)が進み出て次のように誓った。
 「官軍のために弓矢を持っているのではありません。習慣として獣肉を食べるのでもっているだけでございます。もし官軍に対するために弓矢を用意したというのなら齶田浦の神が罰するでありましょう。清き心をもって朝廷にお仕えしたいと思います」
 そこで恩荷に小乙上(しょうおつじょう)(冠位一九階中、第一七位)を授け、また渟代・津軽郡の長官をそれぞれ定めた。そしてさらに進んで有間浜にて渡嶋(わたりのしま)の蝦夷を召し集めて饗宴を開いて帰った。

 ・同七月(史料二三)
 蝦夷が二〇〇人ばかり朝貢してきた。いつもより盛大に饗宴を開いた。柵養蝦夷二人に位一階、渟代郡の長官沙尼具那(さにぐな)に小乙下、次官の宇婆左(うばさ)に建武(けんむ)、勇建(ゆうけん)の者に位一階を授け、沙尼具那には別に鮹旗(たこのはた)・鼓・弓矢・鎧を賜った。また津軽郡の長官馬武(めむ)に大乙上、次官の青蒜(あおひる)に小乙下、勇健の者二人に位一階を授け、馬武には別に鮹旗・鼓・弓矢・鎧を、沙尼具那と同じだけ賜った。また都岐沙羅柵造に位二階、その判官に位一階を授け、渟足柵造の大伴稲積には小乙下を授けた。また渟代郡の長官沙奈(尼)具那に命令して、(渟代・齶田二郡の)蝦夷の人口と、その郡内に虜(とりこ)となっている者の人口とを調査させた。

 ・斉明天皇五年三月(史料二五)
 阿倍臣が軍船一八〇艘を率いて蝦夷国を討った。阿倍臣は飽田・渟代の蝦夷二四一人およびその虜三一人、津軽の蝦夷一一二人およびその虜四人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷二〇人を選抜して一ヵ所に集め、饗宴を開いて禄を賜った。また船一隻と五色の綵帛(しみのきぬ)(染め分けた絹という)をもってその地の神を祀り、肉入籠(ししりこ)に進んだ。すると問菟(という)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)・菟穂名(うほな)の二人が進み出て、
 「後方羊蹄(しりへし)をもって政所(まつりごとどころ)とするのがよろしうございます」
と進言したので、それにしたがってそこに郡の長官を置いて帰った。
 また道奥国司と越国司にそれぞれ位二階、郡の役人には位一階を授けた。

 ・斉明天皇六年三月(史料二七)
 阿倍臣が軍船二〇〇艘を率いて粛慎(あしはせ)国を伐(う)った。阿倍臣陸奥蝦夷を自分の船に乗せて大河のほとりに至ると、渡嶋蝦夷が千人余りが海岸に集まり、川に向かって軍営を構えていた。そしてそのなかから二人が飛出してきて急に叫んだ。
 「粛慎の船師が多数来襲して我々を殺そうとするので、どうぞ川を渡ってお仕えさせてください」
そこで阿倍臣は、船を出してその二人を呼び寄せ、粛慎の隠れ場所と船の数を問いただすと、二人は隠れ場所を指差しながら、
 「船は二十艘余りでございます」
と述べた。そこでさっそく粛慎に使を出して呼んだが来ないので、阿倍臣は綵帛・兵器・鉄などを海岸に積み上げ、おびき寄せた。すると粛慎は軍船を陳(つら)ね、鳥の羽を木にかけて旗印とし、桿をそろえあやつって近づいて来て、浅瀬に船を停(と)めた。そのうちの一艘から二人の老翁が出てきて、まわりをまわって、積み上げてある綵帛などを詳しく調べた。やがて老翁は積んであった単衫(ひとえきぬ)に着替え、それぞれ布一端を提げて船に乗って帰っていった。ところがしばらくすると老翁はまた現れて、さっき着替えた単衫を脱いでそこに置き、提げていった布もそこに戻して、また船に乗って帰っていった。阿倍臣はさらに何艘かの船を遣わして粛慎を呼び寄せたが、彼らは応じず、弊賂辨嶋(へろべのしま)に帰ってしまった。しばらくして粛慎は和を乞うたが、阿倍臣はこれを許さず、粛慎は自分たちの柵によって戦った。このとき能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)が粛慎のために殺された。なお盛んに戦ううちに粛慎が敗れると、彼らは自分の妻子を殺してしまった。

 
 これらの記事は、各年の冒頭の書出しをはじめとして、たしかに似通った描写がまま見られる。そこでこの三年にわたる記事を、一回の遠征を三回に分けて書かれたものとみたり、あるいはとくに最初の二回の記事がよく似ているので、四年次と五年次の遠征は同一事象で、それと六年次とのあわせて二回の遠征が行われたとみる学説などがある。
 ただそれぞれの記事にはかなり具体的な記録的記述も多く含まれていて、細かい点では相互に異なる部分が多い。また三回とも別な記事と見ても、そこに何ら矛盾するような記述は含まれていないので、やはり遠征は史料の記載通りそのまま三回あったとみて問題ないであろう。