弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(自然・原始)

新編弘前市史 通史編1(自然・原始)

第2章 津軽の原始時代

第四節 弥生時代

二 稲作農耕の開始

先述したごとく、弥生文化には稲作農耕のほかに金属器も加わっている。恐らく縄文時代から主要な用具であった石器類は次第にその地位を失って、金属器(おもに鉄器)が利器の主流を占めるようになり、それらの器具を使って東北北部でも開拓が進展したであろう。南からの新しい文化として先頭を切って弥生前期の遠賀川式土器が伝播し、砂沢遺跡をはじめ太平洋側にも広がった。八戸市の是川堀田ならびに南郷村の松石橋遺跡などで出土しているが(7)、南部地方といわれる太平洋側では水田跡はまだ発見されていない。
 弥生文化の特色を示すものとして重要視されている金属器の受容を証明し得る遺物は未発見である。しかし、垂柳遺跡において柄杓(ひしゃく)の柄にクマの頭部を彫刻したもの、火鑽具(ひきりぐ)・木鍬(きぐわ)などの木製品が出土し(8)、とくにクマの頭部彫刻を有する柄杓金属器(鉄器)なしでは製作し得ない品物と考えられ、出土した遺物が間接的ながらその存在を暗示しているように思われる。尾上町八幡崎(やわたざき)遺跡や、八戸市是川中居遺跡で出土した木製品(9)(八幡崎は木製碗・是川中居は箆(へら)状ならびに赤漆塗太刀形木製品)などのように、細部にわたる彫刻は金属器ならではの感が強く、金属器弥生文化よりも一足早く、縄文晩期の時代に到来していた可能性も高い。すでに述べたごとく、縄文晩期にはコメが受け入れられていたと仮定すると、生活に不可欠な利器として鋭利な金属器の受容は当然行われていたものと思う。
 西日本から稲作農耕を伴って到来した弥生文化は、縄文文化の強い東北北部の地に入ると、さまざまな変革をもたらしたであろう。しかしながら、現在までに発見された遺構・遺物の範囲では、農耕の存在と金属器の受容を推定する程度であって、残念ながらそれ以上の新事実はとらえられていない。砂沢式ならびに田舎館式土器期の生活用具や住居なども、先の縄文晩期と比較して異なりはほとんどみられぬ状況であり、したがって生活そのものは縄文時代以来の流れを踏襲していたものと考えられる。

島根県斐川町・荒神谷遺跡から発見された多量の弥生時代の銅剣
(島根県埋蔵文化財調査センター提供)

 近世ならびに近現代に入っても、東北北部は冷害・飢餓により人々は痛めつけられてきた。まして約二〇〇〇年をさかのぼる弥生時代に、この寒冷な地で稲作農耕に挑戦した先人の労苦はいかばかりであったろう。天は人々の労苦に苛酷(かこく)な仕打(しう)ちを与え、弥生文化到来のころは寒冷のため稲作も円滑に行うことは難しかったであろう。縄文時代の遺跡に比して弥生時代の遺跡は極端に少なく、しかも遺跡の分布は水田耕作の可能な位置に立地するものよりも、縄文時代と同様な丘陵・台地を占地する例が多い。やがて気候の寒冷化が激しくなって稲作農耕をあきらめ、狩猟・採集に戻るか、あるいは南方への移住がなされたのであろう。東北北部の地は次第に北からの人々が津軽海峡を越えて移住し、北の文化(北大(ほくだい)式・江別(えべつ)式など)を定着させるのである(10)。