弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(自然・原始)

新編弘前市史 通史編1(自然・原始)

第2章 津軽の原始時代

第一節 青森県の考古学研究史

三 第Ⅰ期…考古学研究の曙の時代

永禄日記(えいろくにっき)(館野越(たてのこし)本)にある、亀ヶ岡城の築城に関しての土器発見記事を挙げねばならないだろう。この記事は、浪岡北畠氏の子孫といわれる山崎立朴(やまざきりゅうぼく)(?~一八〇五)が、安永七年(一七七八)に佐藤只之助の家記を編集したものといわれるが、『平山日記(ひらやまにっき)』や『津軽一統志(つがるいっとうし)』には亀ヶ岡城の築城についての記述はあるものの、土器発見に関する事項はみられず、したがって立朴が風説を聞いて、編集時に挿入したのではないかと思われる(1)。
 菅江真澄(すがえますみ)(一七五四~一八二九、三河国〈愛知県〉出身)は、寛政八年(一七九六)四月十四日、現在の青森市三内(さんない)において縄文土器ならびに土偶などを実見し、それに考察を加えて『栖家(すみか)の山』に書き記し(2)、同年七月二日には亀ヶ岡で掘り出された各種の土器を検分して、『外浜奇勝(そとがはまきしょう)』に記している(3)。なお、真澄は文政五年(一八二二)ころに『新古祝甕品類之図(しんこいわいべひんたぐいのず)』を著し(4)、その中で、現在の大館市橋桁(はしけた)と本県の亀ヶ岡出土の土器を比較し、類似点を記述している。

菅江真澄画像
(大館市立中央図書館蔵)


新古祝甕品類之図」 表紙と一部
(大館市立中央図書館蔵)

 これより先の寛政年間に、弘前の工藤常政(くどうつねまさ)(屋号が練屋(ねりや)のため練屋藤兵衛(とうべえ)ともいわれる)が、『津軽俗説選(つがるぞくせつせん)』五巻を著し(5)、「乳井大円寺の石器」と称し石鏃(せきぞく)を天狗鏃斧として紹介している。
 一方、この時代における政治の中心地であった江戸では、滝沢馬琴(たきざわばきん)ら一二人の文人が集まって「耽奇会(たんきかい)」を結成し、文政七年(一八二四)五月から毎月一回の割合で上野の不忍池(しのばずのいけ)畔にあったという淡々亭に集まり、各人が収集した珍品を持ち寄り批評会を催していたといわれる。それらに関する記録が『耽奇漫録(たんきまんろく)』に掲載されており(6)、亀ヶ岡出土の土偶土器が、土偶人・古磁器古陶器などの名で満座の注目を浴びていたらしい。
 時代が江戸時代末期のいわゆる幕末期に入ると、樺太や蝦夷地探検で名をはせた松浦武四郎(まつうらたけしろう)(一八一八~一八八八)が、その著『東奥沿海日誌(とうおうえんかいにっし)』の中で亀ヶ岡とその北に位置する筒木坂(どうぎざか)から多数の土器類が出土することを記述し、特に筒木坂は陶器坂であろうとの見解を披瀝(ひれき)している。また、下北(しもきた)半島の佐井(さい)村にある矢根森(やのねもり)八幡(八幡堂)、むつ市女館(おんなだて)、津軽半島の小泊(こどまり)・三厩(みんまや)村などにおいて石鏃が発見されている旨をも記している(7)。
 幕末期は、本県においても続々と文化人が登場し、多くの記録・日誌などを残している。
 平尾魯仙(ひらおろせん)(一八〇八~一八八〇、弘前の人、国学を学び画道に親しみ、数多くの書を著す)が、『合浦奇談(がっぽきだん)』(一八五五)に〝掘地獲古物〟のタイトルで、津軽の各地で発見される石鏃・石斧(せきふ)・土器などを地名入りで記し(8)、『谷の響』(一八六〇)では、現在の尾上(おのえ)町八幡崎(はちまんざき)遺跡(県史跡)から多数の土器、弘前市小栗山(こぐりやま)では七本の石斧、同市独狐(とっこ)からは亀ヶ岡式タイプの土器が出土することを記している(9)。

平尾魯仙画像(個人蔵) 平尾魯仙著「谷の響」甲・乙(弘前市立図書館蔵)


平尾魯仙著「合浦奇談」の表紙と一部(弘前市立図書館蔵)