弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編1(自然・原始)

新編弘前市史 通史編1(自然・原始)

第1章 津軽の自然

第五節 山地と丘陵の生い立ち

弘前市街の南側に広がる台地や丘陵は、りんご園として利用されている。その丘陵には、園地を造成する時にできた崖(写真43や写真57)があちらこちらにみられ、丘陵を構成する地層の断面(このような場所を露頭という)を観察することができる。地層の積み重なりに従って、地層をつくっている堆積物の性質や含まれている化石を調べると、地層堆積した所の様子や年代がわかり、海や大地のたどってきた歴史がみえてくる。

写真43 りんご畑の中にある,地層観察に重要な露頭。栩内川層(大和沢層)や松木平層からなる。
(松木平付近)

 りんご園の中でみられる露頭の一部には、時として円や砂利が密集していることがある。そこが沢のすぐそばであるのならば、大雨が降って増水した時に上流から運ばれてきてたまったものと考えることができるが、近くに沢がなかったり、谷川よりむしろずっと高い尾根筋に砂(されき)からなる堆積物があるのはどうしてだろう。
 例えば、深山沢(しんざんざわ)右岸のりんご畑の中を登って行き、標高一六〇メートル付近の尾根の頂上部が削られた所(図46矢印①)をみると、傾いた泥岩層の上に砂利がたまっていることに気がつく(写真44)。この場所は深山沢に平行する北西-南東の尾根から枝分かれした、西へ向かって約四〇〇メートル突き出た小さな尾根に当たり、深山沢の河床よりは六〇メートル以上も高く、二五〇メートルも離れている。

写真44 切り割りの表部(上の写真の矢印)に散らばってみられる,おもにチャートからなる円(下の写真)。場所は図46の①

 この地点で堆積物の様子を詳しく観察すると、砂利は泥岩地層の表層部に、まだ固まりきらない状態で散乱している(写真44の下)。の大きさは最大で二五センチメートルに達し、小さなものでは一センチメートル前後のものまである。そのの種類は、大部分が深山沢や大和沢の上流部に露出している先第三系(注)の地層(図46の灰色の部分)を構成しているチャートで、しかも円である。したがってこれらのは、少なくとも一・六キロメートル上流に分布する先第三系から運ばれてきたことになる。

図46 太い破線は深山沢の東側に併走してみられるリニアメント。矢印の①~④は断層鞍部の位置。(国土地理院発行2万5千分の1地形図「久渡寺」を使用)

 砂利のみられるところを境に、その下にある地層は東西で傾斜方向が異なっている。東側はほとんど直立に近く傾斜した泥岩地層(松木平(まつきたい)層)で、西側は北東へ緩く傾いた凝灰岩地層(栩内川層)からなっている。つまり、この場所はもともと栩内川層松木平層断層で接している所がくぼみになっていて(断層鞍部(だんそうあんぶ)という)、そこを流れていた谷川の川底に砂がたまったのだと考えることができる。地形図を注意深くみてみると、断層鞍部を示唆するような尾根の一部がへこんだ地形は、深山沢に平行して何ヵ所もあることがわかる(図46矢印①~④)。
 このことはつまり、かつて深山沢の東側に二五〇メートルほどの距離を置いて、現在水の流れている沢床よりも六〇メートル以上高いところに、砂やを運搬するような沢が流れていたことがあったことを示している。昔流れていたその沢を仮に古深山沢(こしんざんざわ)と呼ぶことにしよう。ところがその後、古深山沢の西に谷筋ができ、その新しい沢を水が流れるようになって次第に深い谷が刻まれ、広い谷筋が形成されて現在の深山沢ができたのだろう。水の流れなくなった古深山沢の沢床は丘の上に取り残され、ついには侵食により開析されて所々くぼんだ地形や砂利を残すだけとなり、沢の跡形はなくなってしまったと解釈される。
 このような沢や川の流れが、ある時期を境に途絶えてしまうことは、長い地球史の上ではよくあることである。その原因には、断層の活動により地面の一部が隆起して川の流れの方向が変わってしまうことや、川の上流の谷頭(こくとう)侵食が進んだ結果、隣の川筋と合流してしまうこと(河川争奪)などがある。三、四〇万年前に起きた古深山沢の消滅は、はたして何か原因だったのだろうか。
(注) 「先第三系」の「系」は、ある特定の地質時代に堆積した地層という意味。先xxという使い方は、xx時代よりも前の時代をさす総称。例…先カンブリア紀(カンブリア紀よりも前の時代)。つまり「先第三系」とは第三紀という時代よりも前に堆積した地層をさしていることになる。