北広島市/デジタル郷土資料

ふるさと採話集

第九話◇越田旅館に生まれて

 
 着る物だとかは、買うったって無いから青年学校で習って、親の着物を壊して標準服作ったりして着てました。
 たまたま農協さんに、銘仙の反物が何反とかって入った時は、みんな一反ずつ分けてもらって、それで標準服作ったわ。普通の着物を作るには丈がなくて、標準服ならどうにか作れました。羽織にしたのもあったね。
 春先になると、畑に出るモンペとかコテとか上に着る物とか、そういうものばっかり一生懸命作ってたよね。物の無い時だからね。
 農協に布のリュックが入った時、そのリュックを買ってね、ほどいて染めてズボン作ったこともあるよ。その頃のリュックは金具がついてなくて、ただ布をミシンで縫ってあったの。ポケットなんかでも貼り付けのポケットだったし。それを利用して、股のところへ剥いだりしてさ。ミシンは高価だからね、なかなかないでしょ?返し縫いして作ったんだよ。
 
 学校行ってる頃は、長靴なんかもあんまり無かったんだよね。よく長靴の修理の人が廻ってきて、少し貼ったような中古長靴を売りに来ました。
 私、深靴を履いて学校行ったこともありました。深靴って、藁で編んだもの。私の親が編んでくれました。下駄箱に入らないので、上にのせて置きました。だけど温かいんだわ、深靴って。
 つまごは、屋根の雪落とす時に履きました。あれ滑らないから。
 草履なんかは、とうきびがらで作るしね。藁でもいいけども、とうきびがらの方がきれいに出来るんです。とうきびがらの中の軟いようなとこを干して、きれいなところを使うの。作るときに少し湿らせて、柔らかくして編むんです。とうきびがらの草履ってきれいだよ。それから鼻緒に布を巻いたりしてね。私は嫁に行ってからも、その草履を履いては、田んぼに通ったもの。
 若本さんのじいさんはね、草履の鼻緒さ、針金にしたって言ってたね。
 
 靴が出るようになったのは、物の出る頃だから戦後…戦後だって、しばらく物無かったから。
 とうきびがらの草履を作ろうと思ったら、その頃は馬きびのとうきびだから、干して落としては、馬に食べさしたりして、秋になったら一生懸命皮むきして、きれいな皮をのけておいて作るの。
 今のとうきび、誰も皮剥いて干す人いないんでしょ?どうするんだろうね。
 いろんな物食べたよ、戦後はね。
 えん麦食べたよ。えん麦に麦入れて雑炊してたの。それは、結婚する前だけど。
 配給米ばっかりだからね。自分で田んぼ借りて作ってみたって、何ぼもとれないんだわ。雑炊やらかぼちゃの煮たのやら芋の煮たのやら、そんなのばっかり食べてね。
 私なんて、馬を使って畑おこしてたんで、お腹すくんだわ。間に持ってきてくれるのは、芋の塩煮か、かぼちゃの塩煮。それを食べては、馬使いばっかりやったからね。ほとんど男の仕事。学校を卒業する前から、ハロかけもさせられてました。
 
 食べることは、おばあちゃんがみんな作ってくれたの。それこそ蕎麦団子とか芋団子とかさ、そんなのばっかり。
 しばれ芋の団子とかさ。食べたことないしょ?しばれ芋。わざわざ、しばらかすんだもの。
 くず芋あるしょ。それを冬になったら雪の上投げとくの。そうすると、しばれてブクブクになるしょ。それを皮剥いて水にうるかして、白くなるまで水取り替えて、今度干してカラカラにして、それを粉にするの。ひき臼で挽いたりして粉にして、団子にして食べる。その団子がまた美味しかったんだわ。
 今なら駄目だろうけど、粉は白いんだけどこねると真っ黒になるの。熱いお湯でこねてゆでるのさ。そして、きな粉つけて食べるの。そのしばれたのがね、美味しかったんだわぁ。
 他に食べるものないからさ。粉なら乾燥さえさしとけば、なんでもないからね。要するに澱粉。
 それやら芋塩煮にして潰して餅みたくして、きな粉つけて食べたりさ。それの方が、まだ簡単に食べれるけどね。しばれ団子は粉にしとかないと食べられんから、雨降りとか外仕事が出来なかったら、その粉作りをするわけね。
 
 今でもたまに食べてみたいなと思うけれども、その頃の味はないと思うよ。
 砂糖のない時なら、塩きな粉つけて食べたからね。生の芋を擦ってなら食べるだろうけどさ、しばれ芋は若い人らは食べたことないだろうね。
 
 当時、札幌へ行くのは馬だった。
 夏は忙しいから行かれんけど、冬なんかに札幌へ行く時はね、牛乳屋さんの馬橇に頼んで、荷物乗っけてもらって、下りになったら乗っかったり、歩いたりしてついて行ったの。
 トラックで牛乳を運ぶようになったら、今度そのトラックに頼んで。今なら違反だけど、牛乳缶いっぱい積まさった上に乗っかって札幌まで出た。帰りまた空の缶を積んでくる時に、豊平のとこまで出とって、手上げて頼んで乗っかってくる。
 配達する人と顔見知りになるわけさ。乗せてもらったら、なんぼかでも払うからね。乗せた人は、自分の小遣いになるんだね。
 札幌祭りとかあったらね、そのトラックの上が山盛りさ。今なら考えられんけどね、落ちないかと思うほど乗ってるんだよ。昔は、違反でないんだから。札幌祭りったら六月でしょ?田植え時期だもん。私らは札幌祭りったって、とっても忙しくて行けなかったけど。みんな乗っかって行ったんだよ。
 
 バスが通ったのは大分あとだね、結婚してからだから。一日、二往復…一往復だったか。当時のバスはボンネットのバスっていうか、前の出たバス。車掌さんは男の人だった。
 札幌までの運賃は、なんぼだったかな…五〇円かそこらか。決まったバス停っていうのは、あんまりなかったんだわ。輪厚ならだいたい宮本さんの坂ぐらいで停めるんだわ。中途で停めると嫌がられるから。バス停がないんだからね、どこででも乗れるんだから長閑だったんだね。だからバス賃もいい加減でなかったかい。
 
 そんな時代だから、遊ぶって言ったら敬老会とかで、青年で芝居やったり踊りをやったりだけ。
 冬の間に練習してて、四月…四月三日だかだった。その時期が良かったみたいで、毎年そんな時期なんだよね。敬老会は、けっこう続いていた。その頃はね、大曲からも仁別からも来てたの。全体の催しだったんだね。
 あっちこっちの青年同士が、あそこには負けられないってね、色々と出し物で張り合うわけで。お祭りとは別で張り合うんだね。
 ここらでは、増永さんの局長さんの妹さんが踊り好きなもんだから、私らその人から踊りを習ってたの。出し物は、日本舞踊と劇やなんかが多かったね。
 本当にそんなもんでもなかったら、楽しみは何にもないからね。
 
 うちらの輪厚の青年団の中でね、好きな人ばかり集まって、お寺でやったこともあった。お寺の御身堂で、学校の教壇を借りてきて舞台みたいの作ってやったことあるの。練習するったらね、お寺の御身堂借りたりなんかしてね。
 時効だから言うけどね、上に花輪いっぱい飾ってあるしょ?あの花を取って、服にくっつけたりして…いやいや、悪いことしたよね。
 こんなこともあった。終戦後、学校で柏葉会とかって会を作ってさ、各青年が集まって芝居やら踊りをするの。私と増永さんとはね、学校で練習するのに、私が蓄音機しょって。
 ある日、増永さんと二人で歩いて原さんの辺に来たら、後ろからジープが来て止まったの。その頃はまだ、進駐軍が入ってきたからどうのこうのっていう時期だから驚いた。
 中には一人しか乗っていなかった。そして私の後ろから、蓄音機が重そうだからって引っ張って取ってくれて、乗れって言うのさ。あれ私だけなら乗らんかったかもしれないけども、二人いたからね。乗ったけど、どうやって降りたらいいだろうと思ってさ、心配になったもね。
 農協の倉庫の辺に来たら手で合図したさ、ここで降ろしてくれって。そしたら、そこでひゅっと停めてくれたの。学校へ集まってからさ、乗って来たんだって手柄のように話した。よくしてもらったんだって言ってね。みんな、わーって言ってた。
 次の日ね、今度は島松の行在所から来てた人が乗ってきたんだって。どういうんだかね、乗せてくれたらしい。
 はじめはちょっと言葉も通じないし、どうされるか分からないから心配だったんだけども、それでも、私らも乗って来たよって言ってね。一人なら心細いけど、二、三人でね。
 本当に思い出。そんなこともあった。
 
 でもね、仕事いいだけして夜ご飯食べて、また一二時頃まで踊って、そして次の朝も早く起きては働いて。今ならとっても無理だけど、よくやったと思って…若かったからね。