北広島市/デジタル郷土資料

ふるさと採話集

第九話◇越田旅館に生まれて

 
 越田旅館は、私が生まれた頃には、もうやっとったから古いね。
 
 泊まり客は、昔は富山の薬屋さんがよく来て泊まって、そこからあっちこっち歩いてた。来たら一週間はいたね。あの頃なら、「まるゆう」とか「まるき」とか何とかって屋号の薬屋さんがいくつもあってね。今みたく薬局がなくて、歩いて持ってって買ってもらってだから。
 時期は…そうだね、だいたい決まってるね。秋口とか春口とか季節の変わり目に来てた。
 
 旅館をやっていたけど、それだけでなくて、畑をやりながら旅館もやってたの。それでなかったら、どっちでも食べていかれなかったからね。
 
 越田旅館の記録的なものは、何も残ってないね。大福帳も…そうだね、私らのばあちゃんが店番しとるしょ?でも字が書けないし、読めないから、あの人に幾品売ったって、正の字に棒引っ張っとくんだもん。その頃、わりと貸しが多かったから、そうやってメモしたのね。
 
 私は、まだその時小さかったから、どんなふうに集金しとったか分からない。月々集金ってことは難しいわね、サラリーマンじゃないんだから。
 何せ三品売ったとかって、棒っこ引っ張ってたのは記憶にあるんだけどさ。そうやって記録しといて、あとで父に言っては、帳簿につけさしたりしてた。
 
 仕入れはね、父が札幌へ行って仕入れて来とったんだろうね。たまに、札幌へ行って月寒の大沼あんぱんを買って来てくれるのを、楽しみにして待ってたからね。
 
 隣にあった荒木菓子店は、葬式饅頭とか落雁の鯛とか作っては、自転車の後ろに積んで配達しとったの。冠婚葬祭のためにね。
 店にはくじのお菓子とか、なんかいろんな、こまごまとしたお菓子が置いてあった。うちだと、二銭だったら日本飴だか、にんじん飴だかっていう、ゼリーみたいなキャラメルしかないの。だけど荒木さんへ行くと、固いキャラメルがあるので、それが欲しくてね、お金持つと隣の店行った。あと、キビ団子の切ったお菓子があって、中に丸の札がついてると当たりで、もうひとつもらえるのさ。くじ付きのキビ団子。それがよくて、一銭か二銭もらうともう隣の店へ走った覚えがある。
 荒木さんは、ここ辞めて商業組合って言ったかな…なんかそういう事務をやるので、役場の近くに行きましたね。旦那さん亡くなって、奥さんと息子さんはまだ広島にいるっていう話だったんです。奥さんは体格のいい人だったね。息子さんは、常和さんね。
 
 私ね、小学校は西部小学校で、それから高等科を出たの。中学校はなくて高等科で終わり。
 もちろん青年学校はあった。冬は青年学校で和裁習って、教科書も何か二、三冊買わされたわ。ローマ字も少し教えてくれたような気もしたんだけど、そんなもん、みんな忘れてしまったね。
 
 私の父は弱かったものだから、私が学校卒業した年に死にました。
 私、早生まれだったから学校終わってたけど、遅生まれだったら、途中で学校辞めなきゃならなかったかもしれません。
 旅館の方は、その頃は人を泊めても食べさせるものなかったし、店も配給当時で売るものもないし、あんまり忙しくなかったね。だけど、何せもう畑を一生懸命作らないとならない。人の荒れた田んぼ借りて、鍬でおこして余った苗をもらってきて、挿せるにいいとこだけ挿してね。それから、若い牛を三頭飼ってたの。
 
 そのうえ、父が死んでから一週間位してから、母さんが具合悪くなってさ。その前に何年も父が病院を出たり入ったりだからね、お金もないし、どん底に落ちたの。入院もさせられないから、札幌のおじさんの家に一ケ月ぐらい行って、そこで往診してもらうことにしてました。
 
 私は卒業したばっかりで、まだ蒔きつけも途中だったの。父親が死んでゴタゴタやってたもんだからね、蒔きつけも終わらない。
 
 数えなら一五歳。
 そんな頃だからね、蒔きつけするったって肥料もどうやって合わせたらいいもんだか分からないの。草刈りは学校行ってる時からやらされてるから、それはいいんだけども。それこそ隣近所の人が手伝いに来てくれて、草取りやら何やらみんな世話になってきました。
 
 一番ひどい目に遭ったのはね、牛の結核検査っていうのがあるの。結核検査はね、今の中川さんの辺りかな…農協の倉庫が建ってた辺りの横の、ちょっと低くなった草わらに小屋を建てて、みんな牛をそこへ引っ張ってきて泊めるの。泊めて注射したり、体温あてたりなんかして検査するの。そこへ牛を連れて行かなきゃなんない。だけど、若牛なもんだから後ろから飛びついて、おっかかるの。
 母さんは、病院に行く前に近所の人に、「結核検査の時に頼む」って頼んでってくれたって言うんだけど、待てど暮らせど誰も来ないの。
 三回せんにゃならんしょ?三頭おるもんだから。しょうがないから、なんとか引っ張って来たの。次に草から寝わらからみんな持って来なきゃなんないしょ。その三頭の草を一人で刈るのが大変なの。馬に積んでそこまで運んで来てさ、みんなは小屋に泊まるんだけど、私みたいな子どもが泊まったってどうにもなんないし、近所の人に頼んで、なるようにしかならんわと思って、やけくそで家に帰ったの。
 次の日の朝小屋に行ったらさ、お前のとこの牛が離れてどうのこうのって聞かされた。だけどしょうないもね。それが一番大変だった。
 
 父が亡くなってすぐで、母さんは病気だし男の兄弟は小さいし、そんなふうに全部のしかかってきたの。私の下は、ずっと女が続いていて、私が学校出たばっかりだから、あとみんな学校でしょ。一番下がね、まだ乳飲んでたの。それも置いてってあるしょ。おばあちゃんがいたから、まだ良かったけどね。守りしたり何かしてくれたからね。
 
 それに夏はね、水が切れるの。家の中にはポンプがあったし、外にツルベもあったけれど、切れる時は同じなの。溜まる時ったらね、どっちも溜まる。大雨降ったらね、柄杓でこうやって汲めるくらい溜まるの。
 まあ、水が切れるくらいでなかったら豊作でないんだけど。だから水汲みにも行った。
 今、東尚文さんいるしょ?あそこのとこにね、湧き水が出るのを汲みに行ったの。牛乳缶持ってったり、バケツで。汲みに行くのだって私しかいないからね。
 牛や馬が、みんな水飲まんばいいなと思うんだけど、暑いから飲むしね。
 だからね、茶碗洗った水をとっといては、それを飲ましたり。そしたら今度ね、ただの水飲まんくなっちゃってね。塩気あるしょ?茶碗洗った水だから。美味しいんだね。
 湧き水もね、ほとんど直角みたいな坂を登らなかったら駄目なの。崖みたいなもんだね。
 だけど今も、あそこの水は使ってるんだって。大根洗うのもあの水使ってる。それで無くならないんだって。だからすごいなと思ってます。
 
 旅館はね、その頃はもうあんまり泊まる人もいなくなってたの。薬屋さんも来なくなったし、自然と辞めたような感じ。だけど、割と家が広いもんだから、道路が出来上がった時のお祝いとか、何か物事あるっていったら頼まれてはお膳作ったりしてた。一番広い部屋ったって八畳間と六畳間くらいだけどね。
 選挙があるったら、役場の人も来て泊まりました。今みたく車や自転車でなく歩いてだから、仁別と大曲と輪厚と三カ所に分かれて、テコテコと歩かないとならない。だからここを拠点にしてたんですね。役場の人が、前の日から何人も来て、泊まって準備するわけです。
 
 あとは、大きな…道路とか橋が開通した祝宴とか、電気や電話の工事の時に飯場みたいにして利用していました。