北広島市/デジタル郷土資料

ふるさと採話集

第一話◇音江別神社の鳥居

 
 今日は馬鹿に暑いな。一応、形を整えてきたら…。こんなことだったら、作業やっていた姿で飛んでくりゃよかった…。失敗しましたよ。
 
 私の先祖が南の里に入ってきたということは、子どもの頃におやじの背中を流しながら聞いた話です。昔の風呂というのは、農家はほとんど外風呂なんですよ。井戸があって屋根があって、外風呂と井戸と並んでいるという家庭が多かったようです。その風呂に入っておやじの背中を流しながら、無口なおやじでしたけれどね、ひとつひとつ教えてくれたことが、私の記憶の中に残っているんですね。
 
 私のおふくろの親が、明治二六年に広島県から来ているんです。私の…沖中は、それから三年後の明治二九年だと思います。私のおじいちゃんという人は二九才で亡くなっていて、私が三代目なんですけど、その時分の母方が開拓に入った様子をにらんでいて、よかったら来ようという形で、後から来たんじゃないかと、私は思うんですけどね。
 
 既におやじは、今でいう五つ(五才)ぐらいだったので、むこうの様子を覚えていたんでしょう。よく語ってくれたものです。
 
 北広島に入った当時は、輪厚川にね、サケがあがってきていたこと想像できないでしょう?今は、輪厚川の水は少ないですからね。今じゃとっても、あがる状況じゃないですから。音江別川も水は少ないでしょう?音江別川もそうです。水量は豊富だったんですから。
 
 私が子どもの頃には、子ども三人でもまわりきれないような大木が、あっちにもこっちにも残っていたんです。その頃の技術では根っこの始末ができないので、根元がある程度弱るまで、畑のど真ん中に置いてあったもんです。あちこちにあったんです。これがまた、子どもの遊び場なんですよ。私の背丈くらいの高さに切ってあるんです。その上に登って相撲をとって、まくり落とすのは忘れませんよ。平らに切った、その木の上でね。それだけ森林があって水持ちがいいからね、川でも水が豊富にあったと思います。
 
 余談ですが、お嫁さんが来るときに、この音江別川に舟でやって来たって想像つきますか? 舟でお嫁さんが来たんですよ。
 
 おやじの話では、当時は木が豊富で水持ちがよくて、そして水が豊富に出ていたということで、いろんな魚もあがってきたし、一年ぐらい魚釣って暮らせたという状況でした。 
 無理もしたようですが、私のおじいちゃんは、二九才で死んでいますね。私の父が九才のときです。おじいちゃんが亡くなったから、おやじは母方の親、おやじにすればおばあちゃんになりますけれど、そこに預けられて成人したそうです。
 
 私のおばあちゃんは、夫であるおじいちゃんが死んだ時、まだ二二才ですから、母親…私のひいばあちゃんが、見るに見かねて、「子どもは自分たちが育てるから、お前さんは女として生きなさい。」と言ったそうです。それで、子どもと財産を全部国広という家に預けて、ほかの男の人と手に手をとって旭川へ行ったんです。
 夫になった人は、晩年は運送会社の支店長なんかやったそうです。当時としては、教育があった人だったようです。
 そこで私の家は、一旦バラバラになって、それからおやじが成人して、隣の山辺という家の娘さんと結婚したのが始まりで、私たちが生まれた訳です。
 
 祖父が明治時代に建てた家がまだあるんですよ。あれ、失敗したと思うんです。山口県に行けばわかりますが、絶対に南に窓がないんです。今は、あると思いますが、古い家になるとないです。暑いところだから、南ふさいじゃうんです。北を開けるんです。北と東ね。
 私のところも、北と東に入口があります。南は、潰しているんです。今、その逆で、南にガラス入れてます。
 
 もう、北広島では明治の家は残っていないんではないか…。昔の格子戸や内玄関なんかを大事に保存しとけばよかったと思っているんです。あっちこっち直してしまってから、三分の一になった当時の建物の残っている部分を、このところ大事にして、古いまま置いてあるんですけども。
 
 あと、私の家ね、全部栗です。土間が楢だと思いますが、あと全部栗。とにかく家一軒建てるだけ栗の太いのがあったんですね。もう、タルキ見たって節がほとんど見られませんよ。きれいなもんですね。