北広島市/デジタル郷土資料

北広島遺産ハンドブック 歴史遺産

[4 西の里・北の里エリア]

4-4 北の里エリアの歴史遺産

 現地で見学・観察可能です。  直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。
15 北の里 遺跡
北の里1、2、3遺跡
 

 
江別市との境界である志文別川の右岸側の河岸段丘上で発見されました。とくに北の里3遺跡は、縄文時代前期以降の竪穴式住居跡が15か所、焼土及び屋外炉11か所、その他ピットが690か所発見されました。
所在地:北の里531、527、490ほか
 
 
16 北の里 神社 
北の里八幡神社
 

 
北の里八幡神社は、北の里の入植者有志が中心となり明治24年に建立され、ご神体は入植者の故郷秋田から開拓の守護神として分霊して納められ、開拓者の子孫が大切に守り続けています。現在の本殿は、大正2年築・総緋桂(ヒガツラ)造りの広島神社本殿を移設したものです。
所在地:北の里138付近
 
 
17 北の里 交通 
道道江別恵庭線
 

 
もとは江別停車場から恵庭村字漁村まで、室蘭街道にいたる里道として明治22年に開通しました。この道路は広島開墾地や江別の北越植民社の開墾事業にとっても重要な道路になりました。
 
 
18 北の里 昔話
大蛇神社跡(だいじゃじんじゃあと)
 

 
明治17年に広島県から和田郁次郎と共に入植した久保武右衛門の土地に樹齢数百年になるタモの老木が立っていました・・・。
【きたひろ昔話ヘ】
所在地:私有地の為立ち入りはできません。
 
 
19 北の里 交通 
夕張の渡し
 

 
千歳川には江別の石狩川から、漁(いざり)、千歳まで蒸気船や帆かけ舟の航路がありました。現在の千歳川橋付近やその他にも船着場があり、物資の運搬は道路よりも早く運賃も安いものでした。しかし一方で、川向かいの幌向村(南幌町)とは行き来がありませんでした。明治末期に砂山付近で渡し舟を始めた人が現れ、行き交いが盛んになります。昭和22年頃まで「夕張の渡し」がこのあたりにありました。
 
 
20 北の里 遺跡
北の里4、5遺跡
 

 
裏の沢川左岸の河岸段丘上に縄文時代前期~中期の土器片が出土しました。
所在地:北の里60-1、79-2
 
 
21 北の里 開拓 
五反歩(ごたんぶ)地区、五反歩の池
 
 
 
北の里開拓の頃、自給のために裏の沢川の下流に水門をつくり、川の両側に五反歩(間口15間・奥行100間)の水田を25区画造ったのが地名の由来です。水不足から野幌国有林の沢地を借り大きな溜池の堤をつくりました。これが現在も残る五反歩の池です。
所在地:西の里734付近、北の里384付近
 
 
22 北の里 遺跡
北の里6、7、8遺跡
 

 
北の里6遺跡は、北広島で発見されている縄文時代の集石遺構があり、墳墓だとされています。北の里7、8遺跡は、縄文前期~中期の土器片や黒曜石片が出土しています。
所在地:共栄326、362、北の里260ほか
 
 
23 北の里 開拓 
アオンボ川
 

 
昭和13年に囚人たちの手によって掘削されました。土木作業に動員された囚人たちは、青い服を着ていたので「青ン坊」と呼ばれ、それがいつしか労働の成果である排水路の呼称として残りました。この排水路掘削により、現在の東共栄から北の里にかけての水田開発が可能となり、広島村の水稲作付面積が増大します。
 
 
24 北の里 開墾 
拓北地区
 

 
北広島で太平洋戦争後拓かれた、戦後開拓地のひとつです。それまでは、大部分が葦原(よしはら)で、馬の背に乗っても前が見えないほど葦が茂っていました。戦後、10数軒にも上る満州や樺太などからの引揚者たちの入植が進み、一気に水田が広がりました。千歳川の水害防止のため築堤や、河川改修工事も進みますが、北広島のなかでも一番低い場所で、昭和30年代から40年代にかけては洪水の被害に悩まされました。南の里地区と合わせ、北広島の低地に広がる水田の風景が眺められる場所です。