函館市 函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 下

第一八編 功労者 第一章 表彰 第一節 開拓使以後の表彰 

 開拓使は、北海道の産業開拓は民心の涵養、育成にありとして寄付・奇篤行為の奨励とともに善行者を表彰することがおおかった。
 明治の初め、孝子・義僕・節婦・篤行・奇者として表彰された人が多い。
 貞婦として表彰された臼尻上田(東出)タマは、北海道人名辞典にその名が記されている。同じく貞婦として大正年間に渡島斯民会より表彰された尾札部村棚谷スエ・臼尻村高田キワは、道庁立高等女学校校友会編になる「北海道婦女善行録」(大正六年)にその貞節が記述されている。大正八年、布川タカは斯民会の表彰をうけた。
 孝子として、明治一三年に表彰された臼尻村東出杉次郎・明治一九年には臼尻村浜野兼三郎、尾札部村の佐藤鶴松がいる。のち昭和一一年、臼尻村小林幸八が、孝子の亀鑑として臼尻村長より表彰されている。
 漁船遭難の救助に当たった善行者尾札部村小田原由太郎、吉川与三郎がいる。
 道路修築費や学校設立の寄付などにも多くの賜杯や褒状が授与されている。
 
                  茅部山越両郡篤行奇特者調        (北海道立図書館 所蔵)
  上田 タマ                            明治十三年
   同国同郡臼尻村四十五番地漁業東出市之助(明治十三年一月六十二年十ケ月)妻上田タマ(実ハ同郡森村平民上田仁吉□三女同五十年十ケ月)貞婦ノ聞アリ副戸長青木幹兵衛及森村在勤警部佐藤作寿等ノ上申スル所トナリ猶事際ヲ調ラルゝニ嘉永元年東出市之助ヘ嫁セシヨリ夫ノ貧窮ヲ助ケ日夜家業ヲ経営セシニ不幸ニシテ明治元年夫市之助悪疫ニ罹リ 追次貧困ニ迫ルモ屈セス養男杉次郎實ハ臼尻村字板木平民川〓子之松□二男同二十六年九ケ月ヲ督励シ稼業勉強セシメ夫ノ病苦ハ怠リナク看護シ節義ヲ忘レズ志操ヲ變セザル既ニ三十年間ナリ 故ニ長女ヨシ同二十四年十一ケ月養男杉次郎長女孫タケ同五年十ケ月(同人妻離別後未迎)長女ヨシ私生長男孫己之衛門同四ケ月一家五名能ク親睦養男杉次郎ハ貧家ヲ脩メ孝道ヲ尽スモ必竟養母タマノ教育ニ拠ル所ナリト村中ハ勿論近隣ノ村々ニ至ルマテ称賞セサルナク稀ナル貞婦ナリト当時戸長相馬権四郎ノ上申ニヨリ茅部郡役所ヨリ開拓使函館支庁 開申シ左ノ通 賞誉セラレタリ
                             渡島茅部臼尻村平民。東出市之助妻
                                   上田 タマ 五十一年
  嘉永元年中夫市之助ニ嫁セシヨリ以来能ク夫ニ事へ 婦道ヲ尽シ一家親睦日夜産業ヲ励ミ三十年志操ヲ變セス。養子杉次郎孝子ノ聞アルモ畢竟母教ノ宜シキヲ得ルノ致ス所、其篤行衆人ノ亀鑑トモ相成奇特ノ事ニ候。依テ為其賞金三圓五拾銭被下候事。
     明治十三年三月十三日    開拓使
 
  東出 杉次郎
   東出市之助養男東出杉次郎孝子ノ聞アリ 副戸長青木幹兵衛 警部佐藤作寿ノ上申スル所トナリ事実ヲ調フルニ安政三年 市之助ノ養子トナリ幼ヨリ他童ニ異リ能ク養父母ノ意ヲ全シ追次成長ニ隋ヒ 養父ノ業ヲ助ケ養父市之助ハ生来酒ヲ嗜ミ 稼業ヲ怠タル事屢々シテ自然貧窮ヲ招ケリ 又若干ノ負債ヲ生シ 加之明治元年梅毒疾病ニ罹リ 営業スル能ハス。杉次郎ハ若年ナリト雖モ家業励ミ奮発怠タルナシ。衆皆之ヲ憫然ニ思ヒ 家業ヲ営ムノ他人同人ヲ雇ヒ相当ノ事業ヲ為致時ハ粉骨砕身従事シテ其賃金ヲ得一家ノ活路ニ供シ或ハ養父ノ嗜ム処ノ酒ヲ購求シテ心ヲ慰メ 贏餘ヲ以テ養父負債ヲ返金シ家ヲ脩メ孝道怠ル事ナク為ニ一家親睦セリ志操ヲ變セサル既ニ二十年間且他人ニ交際ニハ信義ヲ守ルヲ以テ村中ハ言マテモナク近村ニ至ルマテ賞賛セサルモノナシ 其成績著明ナルニヨリ當時戸長相馬権四郎上申シ茅部郡役所ヲ経 開拓使函館支庁ニ開申シテ左之通賞誉セラレタリ
 
                             渡島茅部臼尻村平民 東出市之助養子
                                東出 杉次郎 二十六年十一ケ月
  幼少ノ時ヨリ能ク養父母ニ事ヘ孝誼ヲ尽シ二十年来志操ヲ變セス一家親睦家業ヲ励ミ其篤行衆人ノ亀鑑トモ相成奇特之事ニ候依テ其賞トシテ金三圓被下候事
    明治十三年三月十三日    開拓使
 
  浜野 兼三郎
  臼尻村 孝子浜野兼三郎賞せらる
             (函館新聞第五五四号=明治一四・八・二六)
  茅部臼尻村平民浜野兼三郎(十六年三ケ月)は幼少(いとけなき)より養母に孝養を尽し明治九年六月中養父死去後一家の生計を身に引受け昼夜家業を励み十餘年間志操を変へざる段他の亀鑑とも成り奇特の事に付き其賞として一昨日金一円五十銭下されました
 
  佐藤 鶴松
                北海道渡島茅部尾札部
                        佐藤 鶴松
  従来父母ニ孝ヲ盡シ殊ニ明治元年中 父不幸ニシテ明ヲ失ヒシ以来ハ起居動作ヲ佐ケ同三年中妻病死シ其他前後困難ノアル内ニモ一意父母ニ孝養スル玆ニ三十餘年間一日ノ如シ志行洵ニ奇特ナリ依テ為其賞木杯壹個下賜候事
    明治十九年二月十八日
            元函館縣令従五位勲四等時任為基代理
            元函館縣大書記官従六位。堀 金峰

佐藤鶴松孝養の賞状と木杯 明治19年 尾札部佐藤忠雄 所蔵

 
  小田原 由太郎ほか                  函館新聞第九〇七号 明治一六・八・二〇
  奇特  茅部尾札部村支木直小田原由太郎同村小田原徳松・佐藤伊三郎・山口平太・松村文七の人々は同村伊藤又三郎外二名が同村沖合にて小舟に乗り漁業のをり不図(ふと)浪風あらくなり船はくつがへり巳に溺死せんとするを認め一同協力救助せし段奇特なりとて各々金拾円を下賜されたり
 
     棚谷 スエ                              北海道婦女善行録
 渡島茅部尾札部(ヲサツベ)村棚谷政之助の妻なり。明治十四年夫政之助と共に本道に移住し、居を函館に定めたり。政之助は巡査を志願し、職を函館警察署に奉ずること八年、明治二十二年の頃より脊髄炎に罹り、職を辞して専ら療養につとめしが、更に快方に向はず、さらぬだに収入の途絶えてより生計頓に困難を加へしことゝて、一家の窮状言語に絶せり。
 スエは家をたゝみ、病夫と四児とを伴ひ、尾札部村に轉住し、此処にて生計の方途を立てんことを図りしが、夫の容體益々不良にして、今は全身不随に陥り、生計を支持せんことも容易ならざりき。スエは深く意を決するところあり、一児を他家に遣はし、又僅少の資本を以て行商を營み、日々魚類野菜納豆草花の類を担ひ、木直(キナホシ)硫黄山に至りて之を鬻ぎ、僅に得たる利潤を以て糊口を繫げり。其の行商のため日々重荷を負ひつゝ、嶮峻なる山道を越えて三四里の里程を往復し、家に帰れば病夫の安否を問ひ、看護至らざるなく、又児女を慈みて教育に心を用ひ、夜に入りては他人の衣服を縫ひて賃金を得る等勤倹力行幾んど二十年に及べり。されど不幸にして夫の病遂に平癒するに至らず、明治四十二年、スエ五十二歳の夏不帰の客となりぬ。
 誠にスエの病夫に事ふるや慇懃周到之を久しうして渝らず、又よく身を労して家計を支持すること二十年一日の如き、聞くもの其の貞淑を感ぜざるはなかりき。されば大正四年十一月十四日大嘗祭の佳辰に於て渡島斯民會並に渡島教育會に依りて左の通り表彰せられたり。
  病夫ニ仕フルコト十又九年子女多クシテ家貧日々行商ヲナシテ得タル収益ハ尚ホ之ヲ償フ能ハス深夜病夫看護ノ傍勤労ニ依リテ得タル収益ニヨリ僅ニ其ノ支途ヲ辨セリ誠實努力一日ノ如シ病夫ニ死別後益々子女ノ教養ニ意ヲ盡シ又能ク貞節ヲ守リ郷人以テ亀鑑トナス仍テ鐵瓶ヲ贈リ玆ニ其ノ善行ヲ表彰ス
 
     高田 キワ                              北海道婦女善行録
 キワは渡島茅部臼尻(ウスジリ)村の人なり。明治十二年十二月十二日に生る。明治三十一年、高田金助に嫁してより、克く舅及び夫に仕へたりしが、大正元年三月夫金助は樺太へ渡航し、後杳として消息なく、生死も定かならざりき。而して家には五人の幼児及び舅のあるあり、加ふるに赤貧洗ふが如く、一家の困窮其の極に達しぬキワは気を励まし身を碎きて勤労に従ひ、生業を營み其の身を慎みて貞操を完うし、又よく舅をいたはり、子女を撫育せること、郷人の称揚するところとなれるを以て大正四年十一月十四日渡島斯民會並に渡嶋教育會に依りて左の通り表彰せられたり。
  資性温良入嫁以來克ク舅及ビ夫ニ仕ヘ大正三年三月夫金助樺太島ヘ出稼ギ後音信絶ユ然レドモ家ニハ多数ノ子女及ビ舅ノ在ルアリ而シテ家財全ク無ク困窮其ノ極ニ至ルモ日夜勤労給養嘗テ欠キタル所ナシ又克ク貞操ヲ守リ郷人之ヲ推奨ス以テ亀鑑トスルニ足ル仍テ玆ニ鐵瓶ヲ贈リ其ノ善行ヲ表彰ス
 
     表彰状                       小林 幸八殿
 資性温厚篤實九歳ノ時父ハ病ヲ得テ床ニ在ルコト拾年参ケ月ニシテ遂ニ仆フル其ノ間母ハ看護ノ傍ラ出面稼ヲナスモ家財全クナク困窮其ノ極ニ達シ従テ僅カ二十一歳ノ身ヲ以テ日雇ヲ為シ辛フジテ一家ヲ支へ此ノ長年月克ク病父ニ孝養ヲ盡シ母ヲ慰メ弟妹ヲ教養シ家運ノ挽回ニ努メ今日ニ至レリ
 郷人之ヲ推賞ス以テ亀鑑トスルニ足ル仍テ別紙目録ノ記念品ヲ贈呈シ玆ニ其ノ善行ヲ表彰ス
   昭和十一年八月二十三日
                               茅部臼尻村長 宇野 與三五郎