函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 下

第一七編 漁村の生活

第二章 伝説

第一節 伝説

郷土の民話

① 精進川物語                    小林 露竹
 精進川(しゃうじんかは)は尾札部村(をさつべむら)と臼尻村(うすじりむら)の境(さかえ)を流(なが)れる、川幅(かわはヾ)五間餘(けんあま)りの谷川(たにかは)である。うすら寂(さび)しい青白(あをじろ)い岩板(がんばん)の上(うへ)をさら/\と辷(すべ)る澄(す)み切(き)った水(みづ)には一點(いってん)の汚(よご)れさへも見(み)えぬ美(うつく)しい流(なが)れであるが、不思議(ふしぎ)や一尾(いっぴき)の小魚(こうを)も棲(す)まぬといふ、世(よ)にも珍(めづ)らしい川(かは)である。
 今(いま)から二百年(ひゃくねん)の昔(むかし)寛保(くゎんぽ)の頃(ころ)、この海岸(かいがん)へ飄然(へうぜん)と來(き)た一人(ひとり)の旅僧(たびそう)があった。頰(ほヽ)は落(お)ち眼(め)は窪(くぼ)んで頤(あご)の白鬚(しらひげ)は、長く墨染(すみぞめ)の衣に垂(た)れて、一見(いっけん)怖(こわ)さうな眼光(がんくゎう)ではあったが、何處かに物穏(ものおだや)かな而(し)かも慈愛(じあい)に満(み)ちた、六十の坂(さか)も幾(いく)つか越(こ)えた年格好(としかっこう)の僧(そう)であった。
 抑(そも)ゝこの老僧(ろうそう)は名(な)を良俊(りょうしゅん)と言(い)って、奈良其寺(ならなにかしでら)の住寺(じゅうじ)であったといふが、蝦夷地(えぞち)未開(みかい)の人々(ひとびと)を濟度(さいど)しようとの大願(だいくゎん)を起(おこ)して只一人(たヾひとり)北海(ほくかい)の荒浪(あらなみ)を乗切(のりき)って福山(ふくやま)に渡(わた)り、それから東蝦夷地(ひがしえぞち)の各所(かくしょ)を巡(めぐ)って此(こ)の村(むら)へ來(き)たのであった。老僧(らうそう)は尾札部(をさつべ)・臼尻部落(うすじりぶらく)のまだ開(ひら)けてゐないのを見(み)て人々(ひとびと)を教(をし)へ導(みちび)かうとして、此(こ)の両部落(りょうぶらく)の中央(ちゅうあう)ともいふべき精進川(しゃうじんがは)のほとりに庵(いおり)を結(むす)ぶことにした。
 山々(やまやま)の紅葉(もみぢ)が色(いろ)づき初(そ)めて、秋(あき)はいつの間(ま)にか山裾(やますそ)に廣(ひろ)がってゐた。鮭(さけ)や鱒(ます)の美(うつく)しい影(かげ)が勢(いさま)ひよく上下(じゅうげ)する精進川(しゃうじんがは)、岸(きし)の淀(よど)みに姿(すがた)を映(うつ)して水(みづ)を飲(の)む鹿(しか)の來(く)る精進川(しゃうじんがは)、紅葉(もみぢ)の一葉(ひとは)さへも流(なが)れ浮(う)いて一入(ひとしほ)の風情(ふぜい)であった。老僧(らうそう)は繪(ゑ)よりも美(うつく)しいこの川(かは)の眺(なが)めにうつとりとして立(た)ち止(とま)った。やがて此所(ここ)か彼所(かしこ)かと十町程(ちゃうほど)も川(かは)を溯(さかのぼ)ったであろう。一際(ひときは)目立(めだ)つ山紅葉(やまもみぢ)に交(まじ)る翠(みどり)の水松(おんこ)が大樹(たいじゅ)をなして秋草(あきくさ)がやさしく咲(さ)いてゐる川(かは)の東岸(ひがしきし)に、珍(めづ)らしくも数坪(すうつぼ)の臺地(だいち)を見出(みいだ)した。
 其(そ)の夜(よ)老僧(らうそう)は木(き)の葉(は)を敷(し)き重(かさ)ねて笠(かさ)を夜着(よぎ)とし、寂(さび)しい一夜(いちや)を明(あ)かした。身(み)に小刀(せうとう)さへも持(も)たぬ老僧(らうそう)は、自(みづか)ら材木(ざいもく)を整(ととの)へて家(いへ)を構(かま)へることは出来(でき)なかった。然(しか)し幸(さひは)ひ近(ちか)くの溪(たに)へ薪木(たきぎ)を伐(き)りに來(き)た村人(むらびと)に頼(たの)んで幾本(いくほん)かの材料(ざいりょう)を得(え)た。柱(はしら)を立(た)て棟木(むなぎ)も渡(わた)して蔦葛(つたかつら)で結ひ合(あは)せ、川邊(かはべ)の草(くさ)をむしって屋根(やね)を葺(ふ)いた。労(つか)れと飢(う)えとに闘(たたか)ひながら漸(やうや)く出來(でき)た形(かたち)ばかりの草庵(さうあん)ではあったが、老僧(らうそう)は嬉(うれ)しさうに合掌(がっしゃう)して暫(しば)しは念佛(ねんぶつ)に耽(ふ)けるのであった。次(つぎ)は老僧(らうそう)の糧(かて)である。それは草庵(さうあん)の周(まは)りに熟(じゅく)してゐる山葡萄(やまぶだう)・こくわの類(るゐ)であった。わけて此(こ)の臺地(だいち)を廻(めぐ)る樹々(きぎ)に交(まじ)って自然(しぜん)に實(みの)る山茉萸(やまぐみ)は無(な)くてはならなぬ食糧(しょくりょう)であった。
 これからの老僧(らうそう)は本當(ほんたう)に尊(たふと)い聖者(せいじゃ)の生活(せいくゎつ)であった。雨(あめ)の朝(あした)、風(かぜ)の夕(ゆふべ)、窶(やつ)れ果(は)つる我身(わがみ)を忘(わす)れてこの浦里(うらさと)を東(ひがし)から西(にし)へ、西(にし)から東(ひがし)へと巡(めぐ)り歩(ある)いて教(をし)へ導(みちび)いた。或時(あるとき)は漁夫(ぎょふ)の争(あらそ)ひをなだめ、又(また)或時(あるとき)は父子(ふし)のいさかひをたしなめたが、誰一人(たれひとり)之(こ)れに耳(みみ)をかすものは無(な)かった。何處(どこ)へ行(い)っても罵(ののし)られ嘲(あざけ)られた。
 『何(な)んだ!この乞食坊(こじきぼう)主ず!』『五月蠅(うるさ)い奴(やつ)だ!』『彼方(あっち)へけんじがれ……』然(しか)し老僧(らうそう)はあらゆる罵倒(ばたう)にも恐(おそ)れなかった。痩(や)せ衰(おとろ)へた肉体(にくたい)ではあるが心(こころ)の底(そこ)より迸(ほとば)り出(で)るその真心(まごころ)、淳々(じゅんじゅん)として倦(う)まぬ言葉(ことば)の力強(ちからづよ)さ、何(なに)ものか尊(たうと)き力(ちから)に引(ひ)かるヽ心地(ここち)してその教(をし)へに從(したが)はねばならなかった。今迄(いままで)は乞食(こじき)同様(どうやう)の侮(あなど)りをあびせた老僧(らうそう)ではあったが、いつしか信頼(しんらい)と尊敬(そんけい)とに心(こころ)改(あらた)まって、その前(まへ)に頭(かうべ)を垂(た)れねばならなかった。やがて老僧(らうそう)の來(く)るを喜(よろこ)んでもの問(と)ふ若者(わかもの)や、老僧(らうそう)の訪(おとづ)るヽを待(ま)って喜捨(きしゃ)する老婆(らうば)が多(おは)くなった。僅(わづ)かに二三箇月(かげつ)の教化(けうくゎ)ではあったが村人(むらびと)は老僧(らうそう)になついて其(そ)の徳(とく)を賞(ほ)め讃(たた)へぬ者(もの)とて無(な)い程(ほど)となった。
 山々(やまやま)の木々(きぎ)はすっかり葉(は)を落(おと)して、泣面山(なきつらやま)の山颪(やまおろし)が寒々(さむざむ)と里(さと)を吹き捲(まく)ってゐた。村人(むらびと)は雪圍(ゆきがこ)ひの枯(かれ)ドグヒを刈(か)ったり、越年(をつねん)の薪木(たきゞ)を伐(き)るのに忙(いそが)しかった。老僧(らうそう)は相変(あひかは)らず破(やぶ)れた衣(ころも)の裾(すそ)を風(かぜ)にはためかせながら村(むら)を巡(めぐ)ってゐた。
 或(あ)る雪催(ゆきもよ)ひの寒(さむ)い夕(ゆふ)べであった。薪木(たきぎ)を伐(き)って山(やま)から帰(かへ)る二三の村人(むらびと)が老僧(らうそう)の草庵(さうあん)の側(そば)を通(とほ)った。何時(いつ)の世(よ)にも絶(た)えないのは物好(ものず)きなそして軽卒(けいそつ)な愚(おろ)か者(もの)の行為(かうゐ)である。ふと一人(ひとり)が言(い)った。
 『坊様(ぼさま)何(なに)してゐべ?』
 『お經(きょ)でも讀(よ)んでゐべさ』
 遂(つひ)に一人(ひとり)は草庵(さうあん)の筵戸(むしろと)に忍(しの)び寄(よ)って中(なか)を盗(ぬす)み見(み)た。老僧(らうそう)は圍燼裏(ゐろり)に坐(ざ)して夕食(ゆふしょく)の塩茉萸(しほぐみ)を食(た)べてゐた。之(こ)れを見(み)た彼(かれ)は驚(おどろ)きの目(め)を見張(みは)って他(た)の一人(ひとり)に『筋子(すぢこ)を食(た)べてゐる』とさヽやいた。
 翌日(よくじつ)彼等(かれら)は此(こ)の話(はなし)を村人(むらびと)に触廻(ふれまは)ることを忘(わす)れなかった。
 『あの坊(ぼんぢ)なまぐさ坊主(ぼんぢ)だ。偽(ねせ)もんだ。筋子(すぢこ)食(く)ってゐだでァ』
 『よぐも今日(けふ)まで俺達(おれだち)ば騙(だま)してらもんだなァ』 『狡(ずる)い野郎(やらう)だ。ぶ殴(なぐ)てしまへ』
 話(はなし)は忽(たちま)ちのうちに大(おほ)きくなって、東(ひがし)は見日(けんにち)から西(にし)は熊(くまどまり)まで、老僧(らうそう)は筋子(すぢこ)を食(く)った生臭坊主(なまぐさぼうず)であると廣(ひろ)まってしまった。そして昨日(きのふ)までの信頼(しんらい)と尊敬(そんけい)は、一日(いちにち)にして元(もと)の乞食坊主(こじきぼうず)の侮蔑(ぶべつ)に変(かは)ってゐた。
 此(こ)のことより老僧(らうそう)の教(をし)へに耳(みみ)を傾(かたむ)ける者(もの)が無(な)くなったばかりか、子供等(こどもら)は後(うしろ)から嘲(あざけ)り罵(ののし)り、村人(むらびと)は草庵(さうあん)に石(いし)を投(な)げうった。老僧(らうそう)は急(きゅう)に変(かは)った村人(むらびと)の態度(たいど)を心(こころ)からなさけなく思(おも)った。併(しか)し敢(あへ)て辯解(べんかい)をしようともしなかった。たヾ重々(おもおも)しい口(くち)の中(なか)からこんな呟(つぶや)きを村人(むらびと)の誰(たれ)かに聞(き)かせた。
 『この川(かは)には鮭(さけ)が上(のぼ)らなくなるだろう。また魚(うを)といふ魚(うを)は一尾(いっぴき)も棲(す)まぬやうになるだろう。それは私(わし)が筋子(すぢこ)を食(く)はぬ證拠(しゃうこ)ぢや』
と、そして再(ふたヽ)び飄然(へうぜん)と處(ところ)定(さだ)めぬ雲水(うんすゐ)の旅(たび)に出(で)てしまった。
 此(こ)の時(とき)以來(いらい)惜(おし)くも此(こ)の川(かは)から魚(うを)の影(かげ)が失(うしな)はれてしまった。村人(むらびと)がこれまで喜(よろこ)んで漁(と)った鮭(さけ)も鱒(ます)も、さては山魚(やまめ)・岩魚(いはな)の小魚(こうを)の類(るゐ)まで一切(いっさい)居(ゐ)なくなってしまった。今(いま)尚(な)ほ草庵(さうあん)の跡(あと)と言(い)はるヽ川岸(かはぎし)の臺地(だいち)に紅葉(もみぢ)や水松(おんこ)が寂(さび)しく残(のこ)って、來(く)る秋(あき)ごとに良俊和尚(りょうしゅんをしゃう)を偲(しの)ばせるものが多(おほ)い。村人(むらびと)は此(こ)の所(ところ)を「寺屋敷(てらやしき)」と言(い)って、粗末(そまつ)にせぬといふことである。
                          磨光尋常高等小学校郷土文集「漁火」昭和一〇年
 
 ② 精進川ノ奇異
  本村ノ尾札部村境界ニ近キ處字板木ニ精進川ト称スル河幅五間余ノ小流アリ。
 其ノ名ノ示ス如ク、水清ク澄ミテ魚棲マズ。
 世人鉱毒ノタメナラント云フモ左ノ如キ傳説アリ。
 今モ此ノ上流ニ寺屋敷ト称スル所アリ。
 往昔其處ニ一ノ庵寺アリテ一人ノ出家住ミ念佛勤行ニ余念ナカリキ。
 晩秋ノ頃常ニ胡頽子ヲ塩漬トシテ菜トセリ。
 漁夫等ソヲ見テ筋子ヲ食スルモノナリト。出家心得ヌコトニ思ヒタレトモ敢テ咎メズ、唯「この川は鮭の上らざるのみか、魚という魚は一尾も棲まぬもの也ト云ヒタリ。
 其頃マデ魚ノ棲ミシ川ナルニ、其後ハ魚ノ影サヘ見エズナレリト。
                              函館支庁管内町村誌「臼尻村」大正七年
 
 ③ 精進川
  この川にはその名の示すように一匹の魚も棲まない。あるいは川上にどこか鉱山があって、その鉱毒のためでないかなどともいわれるが、いまでも古老が語る一つの伝説が残っている。昔、この上流に寺屋敷というところがあって、どこからかこゝに一人の老僧がやって来たが、随分疲労しているのかヂッと目をとじて身動きもしないで叢に坐していたかと思うとその翌日になって雨露を凌ぐばかりの庵を建て、読経誦唱の声が朗々と洩れてきた。こうした日々が幾日か続いて、初め不意の闖入者をいぶかった村人達の心もいつか敬虔の念に変って行ったが、あるとき心のひねくれた人がいて、老僧が庵の周囲に熟れているぐみを塩漬にして食っていたら、好話題発見とばかり「生臭法師が筋子を喰っていた」と狭い村内にふれ廻ったので、頑迷な村民が愚かにもこれに雷同して、なにくれともなく虐げるのであった。老僧は心得ぬこととは思ったが弁明もしないので、どこかまた飄然と立去って行ったという。それからこの川に魚鱗の影が見られなくなった。
                                    『北方文明史話』中島峻蔵
 
 ④ 精進川伝説
  二〇〇年余の昔、寛保の頃、川汲へ旅の老僧(名は良俊)が来て、精進川上へ草庵を結び、村々を布教した。村人は次第にその教えを有難く信じたが、ある秋の夕方、山帰りの若者二、三人が夕食に老僧が山グミの塩漬を食べているのをすき見して、鮭の筋子を食うなまぐさ坊主と村中に言いふらした。軽率にも村人は老僧を悪罵し迫害したので老僧は「私は筋子を食わない。精進の心は固い。その証拠に今日以後はこの川へ魚は一切来なくなるだろう」と言い残して村を去った。それから川には魚影が消えて全くの精神(進)川となってしまった。村中にたゞ一人、川汲のある老婆は老僧を信じて香花を手向け、毎日前浜に出て老僧の無事を祈った。これから後の川汲にはよく昆布が成長して日本一の昆布浜になったと言う伝説である。
                            「南茅部町史年表」小林露竹編 昭和四二年
 
 ⑤ SHŌJIN GAWA ―The River Shōjin―
Once upon a time, up the River Shōjin, in Minamikayabe, there was a spot called Terayasiki. One day an old priest came to this spot Apparently he had travelled a long distance, for his robe was covered with dust and his face was haggard. He was a complete strangre in the area, and the villagers looked at him askance. The priest, however, took no notice of them, and, going to the riverside, sat in the bushes. Then he closed his eyes slowly as if to put himself in a state of meditation.
The sun was about to set and dusk began to gather. But the priest did not show any sign of standing up. He remained there, motionless, sunk in meditation. Before long, night fell and silence reigned all around. Still, the priest did not leave. Perhaps he was sleeping, for after all he remained there throughout the night.
Next morning, as the sun rose, he got to his feet briskly. Then he began to walk far and near to collect boughs and twigs and stones. With them he soon built a little hut, in which he lived alone chanting Buddhist sutras every day. The villagers were deeply impressed and began to admire him. Many people even offered kindness to him.
One day, however, a villager happened to see the priest eating ripe, salted oleasters. This man had a crooked disposition, and he told other villagers that the priest had been eating salmon roe. As fish and meat were forbidden for priests, the villagers were all shocked to hear this. They grew angry, and began to abuse the priest. Some villagers even threw stones at him, shouting "A corrupt priest!"
The priest was sad. He tried hard to correct their misunderstanding, but they would not listen to him. At last he decided that it was absolutely impossible for him to appease their growing anger, so he determined to leave the village.
On the day of his departure, he said to the villagers, "Though you have no ears for my talk, I tell you clearly that I have never deviated from the teachings of Buddha. I have never, therefore, eaten fish. Remember that, pray." And he added, "To prove my innocence, I will let no fish live in this river." And he left, never to return.
Since then, no fish have been found in the River Shōjin.
 FOLKTALES OF HOKKAIDO by N. TAKAHASI
 
   試訳「精進川」
 むかしむかし、南茅部の精進川の川上に寺屋敷というところがありました。ある日のこと、年老いたお坊さんがここへやってきました。衣がほこりにまみれ、顔がやつれていましたから、かなり遠いところから旅をしてきたことがわかりました。まったく見なれない顔でしたから、村びとはあやしんで見守りました。しかしお坊さんはそんな村びとに目もくれず、川岸の草むらの中に腰をおろし、坐禅をはじめるように、ゆっくりと目を閉じました。
 陽が落ちかけて夕暗がせまってきましたが、お坊さんは立ちあがる気配を見せません。身動きもせず、瞑想にふけっていました。間もなく夜になり、あたりが静まりかえっても、お坊さんは坐り続けました。ひと晩中そのままでいたことからすると、眠っていたのかも知れません。
 朝になって陽がのぼると、お坊さんはすっくと立ちあがり、あちらこちらから木の枝や石を集めてきて小屋をつくりました。それからはくる日もくる日も小屋にこもってお経をとなえ続けました。村びとはその姿を見て深く心を動かされ、お坊さんを尊敬するようになり、お供えものをする人も多くなりました。
 ところがある日、お坊さんが熟したグミの塩づけをたべていると、ひとりの村びとがやってきてそれを目にしました。この男は根性が曲っていたものですから、「坊主が筋子を喰っていた」と村びとにふれまわりました。お坊さんが魚や肉を食べることは許されないので、村中が大さわぎになりました。腹をたてて乱暴をはたらくものもあらわれ、「生ぐさ坊主」とののしって石を投げつけるものもいました。
 お坊さんは悲しくなりました。誤解をとこうとしましたが、だれも耳をかしてくれません。村びとの腹立ちをおさめるすべもなく、お坊さんはとうとうあきらめて村を出ることにしました。
 村を出る日にお坊さんはいいました。「皆さんは聞く耳をもたなかったが、はっきりいっておきます。私は仏さまの教えにそむいたことはありません。魚を食べたことはありません。どうかそのことをおぼえていてください。」また、ことばを続けていいました。「この川に魚が住まなくなれば、私に罪がなかったことの証拠とおもってください。」お坊さんは村を去り、それっきり戻ってきませんでした。
 そのときから、精進川で魚を見かけたものはいません。
                                          (訳 東出功)
 
 ⑥ 海狗(トド)川伝説
 宇地古(うちご-内郷)といふところをへて、海狗(トド)川とて、さゝやかのながれを渡る。この川むかしは瀬ひろく、淵ふかくして鮏いと多く、あびき(網引)ぞしたりけるが、一とせの秋、そみかくだこゝにやすらひ水むすび、かれ飯ひらき、破子のふたに、山ぐみの塩づけなるをあまたとりのせて、それをあはせに水つけをなんくひぬ。行かひ見あざみて、このほうしは、いをの子くひてけり。なまぐさのほうしよ、ものとらすな、宿くれな、見よやあれ/\と、浦のわかうどなど来あつまりてけるに、法師、見たまへ、これはものゝ実にて侍る。われは、露ばかりおかしある身もて侍らず、ゆめ/\といへど、あまたの人にいひけたれてけり。ぐみの実の、鮏の子てふものに露たがふことなう似たりければ、見たがひていふにこそありけれ。さりけれど、いひたてたる人々もいひやまず、ものあらがひになりて、そみかくだ、やすからず、かくばかりほねをくだくすぎやうを、おろかにこそおもへ。汝らに今より末は、鮏ひとつをだにとらせじとて、この水にさかのぼり、たゝう紙にものかいて水上よりうちながしてけるより、こゝに、たえて鮏の魚のぼりこじとつたへ聞侍るなど、浦の子らがかたりもて、五勝手(ごかって-江差町)とて、江差の港のこなたに至る。
                              菅江真澄全集「えみしのさえき」未来社
   訳「椴川(とどがわ)伝説」
   上ノ国(かみのくに)の内郷(うちご)というところから、江差(えさし)との村境をゆき間もなく江差の椴川(とどがわ)(水路延長九・九キロメートル)というささやかな流れがある。
   この川は、むかしは瀬も広い大きな流れの川で、秋には鮭もたくさん遡(さかのぼ)り、村人は鮭の引網漁をする川だった。ある年の秋、修行僧が村をとおり、この川の辺にひと休みして、流れの水を汲み、乾飯(かれいひ)(弁当のこと、昔旅人が携帯した干し飯(ほしい)など)の破子(わりご)(弁当箱)の蓋に山グミの塩づけを沢山のせて、水をかけて食べていた。
   そこえ行きかかった村人が、塩づけのグミで弁当をつかっている僧を見て驚きあきれて、「この法師(坊主)は魚(いお)の子(筋子)を食っているぞ。」と大声でいい、「こいつは生ま臭(なまぐ)さ坊主だ。物を与えるな。宿など貸すな。」「見ろ見ろ、生ま臭さ坊主だ。あれあれ。」などと村の若者たちが僧の近くに集まって来た。
   僧は「めっそうもない。これを見なさい。これはグミの実だよ。私は露ほどにも修行僧の禁(戒(いまし)め)を犯(おか)した体をもってはいない。夢にも決して筋子など食べてはいない。」と大勢の村人に言いきかせた。
  「グミの実が、鮭の子(筋子)によく似ていることから見間違ったのだろうが、それこそ間違いだよ。」と僧は懸命に何度も証(あかし)をたてようとした。
   しかし、僧がいくら村人に説明しても、口々に言いたてる人々の雑言は止まなかった。たがいに言いつづけているうちに僧と村人とは、ついに物争(あらそ)いになってしまった。修行僧の心は穏かではなかった。
  「このように骨を砕く(けずる)ような厳しい修行をつづけている身を、愚かと思うなら思うがよい。お前たちには、今から後は鮭いっ匹さえも獲れなくして、証(あかし)として見せよう。」と言って川を遡(さかのぼ)り、懐中から折り畳んだ紙をとり出して何やら念じながら書きしるしてその紙を、水上(みなかみ)から川に流して僧はこの地を去って行った。
   このことがあって後、この椴川から鮭の姿が消え、鮭がのぼらなくなったと伝え聞いている。と村の人が話してくれた。
                            出典菅江真澄全集「えみしのさえき」未来社

(表)精進川伝説対比表