函館市 函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 下

第一七編 漁村の生活 第二章 伝説 第一節 伝説 義経伝説 

古部の獅子鼻の西の崖に、今は鎧岩(よろいいわ)と呼ばれている美しい節修の崖壁が聳立している。
 むかし義経らが、兄頼朝の追手を逃れて蝦夷地に渡りここまできて追いつかれてしまった。義経は覚悟をきめ「もはや決死の我に兜はいらぬ」と自らの兜を弁慶に渡した。弁慶は大いに怒って立ちあがり、追手にむかい大音声に「雑兵ども、我が勇力を確(しっ)かと見よ。」と叫んで兜を崖に投げつけた。
 すると兜は巌に滅入(めり)こんで兜岩になってしまった。これを見ていた追手のアイヌ達は、魔神のような勇力に恐れをなして散げ散ってしまったという。寛政三年(一七九一)この地を舟でいった菅江真澄は「えぞのてぶり」に兜石と記している。のち、大正七年、町村誌尾札部村に「鎧岩」の写真が載っている。
 
「えぞのてぶり」に、そこを離れて三段に掛り落る滝あり。獅子鼻、小滝、判官の兜石、立石などいへるを見過て
   判官(ほうがん)とは、検非違使の尉(じょう)の専称である。源義経は、九郎判官義経(くろうほうがんよしつね)といわれたので判官といえば義経を指すことが多く、この伝説も義経伝説のひとつである。
   黄門という中納言の唐名が、徳川光圀も中納言の官名を授与されていたことから水戸黄門と広くいわれるようになった。
   太閤とは関白の父である前の関白の通称であることから、豊臣秀吉の特称となってしまった。
 
いつのまにか判官といえば義経、黄門は水戸の光圀公に、太閤は豊臣秀吉の専称のようになった。