函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 下

第一一編 災害

第二章 駒ヶ岳の噴火

第二節 昭和の大噴火

昭和四年六月一七日

 鹿部小学校長高橋次四郎の記録によると、六月一七日午前一〇時、駒ヶ岳の噴煙鳴動がもの凄くなり、降灰石も烈しく危険となったので全児童を家庭に戻さず、寺島訓導ほか一名が引率して臼尻方面に向かって避難させた。
 これに先だち一〇時四〇分、大島訓導に命じ御真影並に勅語謄本を奉じて、字常路原田助八家に奉遷し同家に一夜を明かす。鹿部校児童三百餘名は熊校に仮
 翌一八日、陸続と避難して来る父兄に渡しつつ残りの約二百名を引率して早朝熊校を出発。陸路二里、午前六時に臼尻村に到着、朝食の焚出しをうける。覚王寺で昼食をとり、臼尻村を通過し川汲方面に向こうこととした。
 救助にかけつけた尾札部村木直の発動機船に便乗を請い、児童約六〇名は海路船で午後四時すぎ、木直に無事避難した。有志加藤某ほか五、六軒に分宿して木直村民の同情と慰安の救助を受けた。
 一八日、噴煙が静まるのをみとめて御真影ならびに勅語謄本を奉安殿に奉遷したが、同日午前一〇時、烈しく噴煙があがったので再び之を奉じて常路の森田政吉家に避難し、加藤校長ほか村長、森警察署長と共に一夜中護衛した。一九日、常路に奉遷した御真影ならびに御聖勅は、学校長、職員が警護し、正午、無事奉安殿内に奉安した。
 駒ケ岳の活動鳴動は依然止まなかったが、漸次、溶岩の落下降灰の量を減じたので、午前中、木直校で勉学中との通知があった。
 午後、鹿部村の電信線が復旧したので、数次、木直と電信にて諸事打合せをした。
 二一日に至ってようやく、「危険全く去りたるに依り全児童、鹿部に帰来」するよう打電をした。
 二二日、最後の避難児童約六〇名が木直村有志の厚意で発動機船に乗って、午後七時、無事帰村した。爆発後六日ぶりに親子兄弟互いに相擁し、共に無事を喜んだ。
 木直小学校沿革誌によれば、総員二七名と記されている。
 六月二三日、全職員が各字を分担、各戸ごとに児童の安否及び其の行先を調査したところ、一名の死傷者もなく、行方不明者もなく、全く安全に父兄のもとに帰った事実を確かめ、ようやく教職員としての責任の一端を全うしたことを喜び、鋭意、倒壊破損した校舎の整理及び授業開始の準備に従事した。
 鹿部小学校は七月一日、屋内運動場と神社拝殿に分散して授業を開始した。
 小川小学校は大破した校舎の一部に天幕を張り、七月一五日より授業を開始したが、校下の大半が他町村へ転出移住する家が多く、教員の欠員もあったので、通学可能な三名の児童は、鹿部小学校へ通学することとなった。雨鰌川小学校は、六月二二日から授業を再開した。