函館市 函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 下

第七編 産業 第五章 観光 第一節 温泉 川汲温泉 

川汲温泉は、行路がまだ開かれていなかった二百数十年前、川汲山中に、傷ついた鶴が浴(ゆあ)みして瘉(いや)すという名泉、薬効ある霊泉があると伝えられ、嶮路よく箱館在湯川村を経て湯治にくる者が多かったという。
 寛政三年(一七九一)、この地先をアイヌの舟で各地の民俗を記していった菅江真澄の「えぞのてぶり」に、川汲の地名はアイヌ語で「アイヌの国で使う水柄杓のこと」と記し、その前段に「此山の奥には、よき温泉のあるちふ」と記しているが、鶴が遊びに来て浴(ゆあ)みすることには触れていない。
 文化一二年(一八一五)、仙台の人千葉尚が記した鶴泉の由来の掲額は、明治の中頃まで現存していたという。
 鶴の舞いおりる山中の霊泉の名は、鶴の湯伝説となって名湯の名を一層たかくした。
 小林露竹編・町史年表には「安永年間(一七八〇)、久大坂家使役の土人」が発見したとしている。
 文化一〇年(一八一三)、津軽の人三島弁吉が初めて浴室を建てて湯宿を業とした。
 この頃、薬師堂が建てられ、石仏薬師如来(実像は座像の地蔵菩薩像)を祀った。のち、箱館の医師、深瀬鴻斎翁が薬師堂を建て替えたものだという。
 固い緑がかった石を刻んだ像は、全長高さ三六・三センチメートルで、蓮台に座る地蔵菩薩の座像で、両手を前で組み、その掌上に摩尼宝珠を載せている。
 お堂に祀られていたので百数十年の歳月を経て、今なお石仏の表面には造作時塗布された胡粉がのこり、幾条かの朱のあとも美しく残っている。
 
  文政二己卯年(一八一九) 一一月 被仰付
   一、川汲温泉 冥加金 壱ヶ年弐百宛
      文政三庚辰年より申年迄七ヶ年
          納人  川汲村 温守弁吉
 
 川汲温泉場湯守三島弁吉は、年一両の温泉冥加金を滞りがちで、追おい借財もできてしまったので、このうえお上(かみ)に不行届を重ねることは心苦しいものと思い、二〇年余り営業した川汲温泉場を、譲渡することにした。
 文政一二年(一八二九)一〇月、箱館の人能登屋治兵衛は、湯守三島弁吉と倅宇吉・佐吉から金三二両をもって川汲温泉場を譲り受けた。
 大正七年町村誌に「三島弁吉と倅宇吉・佐吉連名の温泉場譲渡証文」が山中家に所蔵されていたと記しているが、昭和四五年ホテル改築当時の頃には、山中家に文書は残っていなかった。
 弘化四年(一八四七)丁未五月一一日、友人白鳥雄造を訪ねて箱館から木ナシ山を越えて、山道九里を川汲温泉に来た松浦武四郎は、一した。
 このとき同行した備後国書生井口赤嶂が、後日、武四郎に贈った一文が「蝦夷日誌」巻五 川汲行の末尾に記されている。
 
   土人の云、此湯は昔樵夫日々此辺の山に入て薪を取帰りけるに、夕方になるや否鶴一羽何かを口に啄て此川筋に下るを見し故、不思議に思ひ、其下る辺を尋探し求めけるに、則一ツの温泉有。然るに其傍の樹の枝に矢疵を負ふたる雄鶴一羽とまり居けるが、是また二、三日を過て行見しかば其疵平愈して飛去しとかや。則其より此温泉に功能ある事をしりて、温泉壺となし、諸人を浴せしむる等、しるしたるままここに挙もの也。
 
 弘化四年(一八四七)、松浦武四郎は「蝦夷日誌」の川汲温泉の項に、「温泉壺一つ。是を引而(ひきて)滝となし浴さしむ。甚熱湯也。水七分湯三分位也。硫黄の気なり。温泉小屋。壺一つ滝一口をこしらへたり。長屋。七局(つぼね)二切たり。溪に枕して風景よろし。薬師堂。一間に一間半位のうつくしき堂也。石階二十級斗を上る。湯守。壱軒 川汲村 弁吉」と記されている。
 浴槽は一つで、高所から湯を引いて滝を一条落していたという。のち、改築をくりかえしても川汲温泉山中旅館の湯の滝は名物の一つであった。
 弘化四年の頃の川汲温泉の土産品(名産)を、武四郎はこの日誌に次の品目をあげている。
  湯葉(ゆば)  款冬漬(ふきづけ)  花郎魚  喇哈石  椎葺(しいたけ)  マ井葺(まいたけ)  干蕨(ほしわらび)
 函館の医家白鳥雄蔵(造)は、箱館町年寄をつとめた白鳥新十郎の次男である。
 京都で頼山陽に師事し、号を茅湖といった。中川五郎次から牛痘法(種痘術)を伝授して秋田に至り、之を藩医に伝えた。秋田候は命じて封内に種痘を施したという。嘉永五年(一八五二)に没した。
 井口較は通称井口晋平といった。備後三原の人で、弘化三年に昌平黌時代の学友松前藩儒山田三郎、名は飛、号は三川のもとに来ていたとき、武四郎を識り親友を重ねた。

河汲村温泉場之図「蝦夷日誌」 弘化4年 市立函館図書館所蔵