函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第六編 漁業

第一章 郷土の漁業

第八節 出稼ぎ

北へ進む出稼ぎ

 二月から五月まで古平(ふるびら)・岩内(いわない)方面へ鰊とりのヤトイに出稼ぎした。通して四〇円から四五円だった。
 函館地蔵町の〓(やまさんぎ)工藤の茅部丸で長万部まで送ってもらった。長万部から山越えするから、その以前(昔)はキゲ背負って股引に米一升入れて、秋味一本担いで歩いて森に一。次の日は長万部って、翌日は黒松内さ出る。古宇後志から雷電越えて岩内でアーアーヤンベした。
 岩内(いわない)でテンデンバラバラになった。そのまた一方は寿都から別れた。
 
 (川汲・〓小板米蔵談・明治二二年生)
 一七、八歳のとき岩内の鰊場に雇(やとい)にいった。(雇(やとい)とは、鰊漁場に雇われた漁夫のこと)。網おろしの祝いは、相当張込(はりこ)んで、街から芸者を招(よ)んで餅搗いて一日中てえいっぱい(充分に)ご馳走してくれた。
 〓小板の爺さんが船頭だった。親方は〓畑太郎といって、去年、日露戦争から凱旋したばかりの人だった。
 二二歳の時、利尻の沓形さ鰊とりにいった。期間中(シノチュウ)、三五円だった。漁のときは庭さ絆纏敷いて藁靴(ツマゴ)履いたまま飯(マンマ)くった。
 着替(きげ)背負(しょ)って川汲山道を越えた。函館から汽車で長万部へいって、そこから道中(徒歩)して寿都・岩内へいった。汽車でいく前は、汽船で長万部まで送られて、そこから道中した。道中喰(く)う米は、股引(ももひき)に入れて背負った。
 鰊場へいく時期になると、蒸気船に場所行きの津軽衆や南部衆が乗ってきた。弥次喜多のように飴鉢を肩に振り分けに担いて来たので「飴蒸気きた」といったものだ。
 
 尾札部の小倉浅次郎(明治二五年生)は、ニシン場へ出稼ぎに行くとき、八貫目の着替(きげ)(衣類)を背負って、川汲峠を歩いて函館に出たという。
 尾札部の吉川菊蔵(明治二七年生)は、若い頃、鰊漁(とり)に五年も出稼ぎしたという。一六歳のとき(明治四三年春)二百石も鰊を大漁して、勘定五〇円と手当五円ももらった。
 長兄(あに)が兵隊にいっていたので、〓道亦のおどさんに「米買って帰れ」といわれて、函館の〓村上旅館にった。一七〇銭だった。一俵四円八〇銭の米一〇俵と味噌一樽買って帰った。
 野菜類は自家栽培していたので、ニシン場の収入で米一〇俵買って帰ったのは家計には何よりの扶(たす)けであったのである。