函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第六編 漁業

第一章 郷土の漁業

第三節 定置漁業

臼尻村網方境界争い

(1)新時代の網立場
 しかし、この約定の厳達も、村網方を納得させたものではなかった。世は移り明治維新の戦乱がすぎると文明開化の時代を迎え、土地も漁場も新政府のもとで新たな権利申請の手続きがとられた。これがまた網立場の境界争いを再燃させることになる。
 明治九年、漁場改めのとき、海岸測量に来村した官の技士が、共同の名儀は好ましくない。重立一人の名で願い出でよ、と教諭をうけた村網は、重立大坂金七の名で願い漁場の権利を得た。
 その後、丈量(測量)にあたっても漁場境界線について村網方に不穏な言動があったが、このときは大事に至らなかった。
 
 (2)丈量取消
 これに対し小川幸松は、前臼尻村戸長役場書記であった白勢透を代言者として、去一四年一一月一五日村網との示談書を添え、第一分家小川吉助を保証人として一〇か条の口換書を函館県庁に提出した。
 紛争に巻き込まれた郡役所は、同年一〇月二八日、小川幸松に対する五月の丈量(測量)を取消して、「中ノ島ヨリ西北へ五百間、字チサンケ川より沖へ四百間」貸渡す可くその請書を差出すよう通達があった。
 函館県庁は、村共同網の願いの筋を了としたのであろうが、これは小川幸松の主張を否定するものであったから〓小川家では黙過容認することができなかった。
 幸松が病気のため親類の函館区小川幸兵衛を代人として、同年一二月七日、函館治安裁判所に勤解理由書をもって訴訟をおこした。この出訴は一二月一四日となっている。
 
 (3)示談書
            示 談 書
  私共鮭建網場ノ義ハ
  先年ヨリ當村ノ内字チサンケ川沖合ニ於テ
  建網営業仕居候ニ付
  是迄村民鮭建網場ト相心得罷在候處
  幸松実父亡小川幸吉拝借海面ノ内 幾分カ入込候趣ヲ以テ
  今般右幸松ヨリ 代人ヲ以 明渡ノ義出願仕候ニ付
  當郡役所ヨリ 懇々御説諭相成 村内総代ノ者始メテ承知仕候
  依之 同人海面拝借済ノ外へ
  明十六日ヨリ向五日間ニ必スシモ引去可申候
  尤 小川幸吉 相続人幸松代人ノ私ニ於テ 猶帰村ノ上
  何分ノ間数 本人及親戚ナル小川幸兵衛ヘ篤ト熟議ノ上
  用捨可為致様取斗可申候
  双方熟談相整候処 書面ノ通相違無之候
  原被連署ヲ以 示談書奉差上候也
   明治十四年十一月十五日
          茅部臼尻村伍長  大坂 金七 ㊞
          同         小助川平次郎㊞
          同   村総代   二本柳庄三郎㊞
          同         中村彦四郎 ㊞
          臼尻村小川幸松及親戚
             小川幸兵衛代人高田 吉蔵㊞
   郡長心得
   茅部郡書記 佐藤 宗正 殿
  前書之通 私立会ノ上 熟議相整候処 相違無之候也
              右 戸長代
                 筆 生 白勢 透 ㊞
 
(4)海面拝借願
  海面拝借願
 茅部臼尻村字弁天島
            陸地浪打岸ヨリ沖ヘ四百間
 一 漁業海面
            字弁天島ゟ西北ヘ向五百間方面
 
 右海面ニ於テ 私祖父小川幸吉義 天保十三寅年(壬寅一八四二)
 ヨリ鮭鮪鱒三業相営ミ 其後明治十一年七月廿日
 付ヲ以 同所海面拝借御許可ヲ蒙リ 代々営業
 罷在候處 本年二月七日 実父幸松病死仕□
 ニ付テハ別紙粗絵図面ノ如ク 字弁天島ノ内 中
 ノ島ヨリ方位三百拾八度三拾分 五百間 同村字チサン
 ケ川ヨリ方位五拾壱度四百間□ 十五年十一月中実
 父幸松へ御割渡相成候通 相続人ノ私ヘ尚引
 続キ年々拝借被仰付ヒ成下度 此段奉願候也
         函館県平民渡島
         茅部臼尻村五拾壱番地
  明治十六年       小 川 幸一郎 印
   二月十八日 親類惣代
         同村百弐番地
              小 川 吉 助 印
 郡長代理
  茅部郡書記佐藤宗正殿
 
 前書之通相違無之ニ付 奥印被下
           同戸長
              相馬権太郎   印
  〔朱〕
 第三十三號
 願之趣聞届候条 明治十五年十月丙第十三号
 ヲ以其父亡幸松へ通達之通心得ヘシ
          函館県茅部山越郡長代理
  明治十六年三月三日 函館県茅部郡山越郡書記佐藤宗正印
 
 (5)村網方訴願
 明治一五年、〓小川漁場と村網方との境界紛争は臼尻村民を二分する争いに発展、戸長をもまき込み、郡役所と実力交渉にまで発展していった。この経過を、同年七月一三日函館県に訴願した村網方提出の「御詮議願書」より抜き書きすると、
 
   五月下旬、尓来亦タ何ノ沙汰無ク六ヶ月ヲ過ギ(五月ニ至ッテ)総代人ヲ郡役所ニ召シ、共同組合連名簿ヲ副(そえ)テ呈シ可ク教示ヲシテ下ゲラル。
   総代人其旨ヲ了承シテ村ニ帰リ、連名簿ヲ整理シテ六月一〇日、該願書ニ副(そえ)テ呈スレバ、則(すなわち)願ノケ(箇)所ニ既ニ小川幸松願ニヨリ御貸渡ニ成リ、私共願ハ重複ノ旨ヲ以テ六月二九日却下スル所ト為(な)ル。(村民皆)驚愕自ラ措(お)ク所ヲ知ラズ。
  遽ニ就産(就職)ノ目途ヲ失スルナリ。豈(あ)ニ黙シテ止(とどまる)ヲ得ン乎。翌三〇日、事情ヲ具申シ追願ニ及ブ。容レラレズ。即時却下スル所ト為ル。〔( )・ふりがな、補注〕
 
 かくして臼尻村共同網方大坂金七外六一名は、函館区三浦政徳を代人として訴願文をつくらせ、函館県令時任為基に「漁業海面拝借之義ニ付御詮議願」をさしだした。
 
 (6)村網方控訴
 明治一五年七月一三日の御詮議願には六二名が連名している。
  赤石歓三郎  大坂 松蔵  木村 浅吉  秋山 磯吉  大倉 若松  京谷佐兵衛  有田 ヨシ
  小川 善助  熊谷喜三郎  五十嵐金蔵  小川 平作  小助川平次郎 魚住 要作  小川佐之吉
  小林辰之助  魚住佐之吉  小川利三郎  佐藤八太郎  大坂 金七  小川 久作  佐藤 千松
  大坂 栄吉  小川留太郎  佐藤 鶴松  大坂 市蔵  小川 與吉  佐藤藤太郎  大坂勘五郎
  加我市太郎  佐藤 寅吉  白鳥 市松  二本柳庄三郎 広瀬治五兵衛 相馬権太郎  ※臼尻村熊村初代戸長
  野村 長吉  広瀬 寅吉  田口 辰蔵  野村長太郎  東出杉次郎  凧島 三平  野村與之松
  東出 榮蔵  津田 円八  能戸藤右衛門 東出 直蔵  中村彦四郎  能戸辰五郎  古川竹五郎
  西田文右衛門 能戸長次郎  村林 由松  二本柳菊松  能代 作蔵  村井 治輔  二本柳傳吉
  浜林 鶴松  山田 留吉  二本柳長作  原田 茂助  山田 沢吉  吉田 岩吉  吉崎市兵衛
 同御詮議願書の文中に、村民控訴の心情と理由をうかがえば、
 
 曽テ幸吉在生中ハ村内ト堅ク約定相結ビ漁場ノ境界ヲ正シ且同村ノ交誼ヲ厚(あつく)シ(テ)情二因(よつ)テ一村親睦シ、漁時ノ都合等ハ迭ヒニ宜(よろし)キヲ計ルヲ得タリ。
 同人(幸吉)死亡(シテ)幸松立(たち)(家督ヲ継)テヨリ、遽(にわか)ニ境界ノ争論ヲ起シ、村民平和ノ中ニ紛擾ヲ惹起シ、屢(しばしば)郡役所ヲ煩(わずら)ハスニ□(いた)ル。
 (小川幸松ハ一間ノ長サヲ)六尺ノ間法ヲ以テス。元来当地方ノ習 慣ニテ、海上ノ測量ハ曲尺五尺ヲ以テ一間ト定メ(ル。是ハ)特ニ我(わが)臼尻村ノミナラズ北海道一般の習慣ニシテ、(一間ヲ六尺トシテ測量スルト、幸松ノ漁場ハ)殆ド旧図二三倍シ、隣ル私共ノ網場ヲ蝕画シ(ソノ為共同網ノ建場(たてば)ハ)暗礁多ク海波慕(たか)ク危険ニシテ漁場ニ適セス。
  臼尻村、其漁場海面ノ境界タル(ハ)古来村内字チサンケ川ノ水流ヲ準據ト為シ、彼岸ヨリ沖ヘ直線(ニ)寅卯(東北東)ヲ指シ、鮭網ハ三百五拾間、鮪網ハ八百間ヲ極点ト為シ、横ハ同点ヨリ斜線亥(北北西)ヲ指シ、鮭ハ六百間、鮪ハ八百間以内ニシテ
 
等々、激して相手を痛罵する語調さえ感ずる程の文面となっている。

網立場境界 第壱図 小川文書


網立場境界 第弐図 小川文書

  〔朱〕
 丙第拾三号
  本年四月第四拾弐号ヲ以テ 臼尻村字辨天島ヨリ 西北ヘ五百間
 海岸ヨリ 沖ヘ四百間 貸渡ニ付 同年五月中更ニ丈量之上 請書取之置候所 右者明治十一年中 其父亡幸吉ノ拝借ヲ相続セシムル主意ニ付 曩ノ丈量ハ之ヲ取消 十一年中 幸吉ヨリ差出シタル略図ニ基キ中ノ島即チ小川幸松漁場ヨリ 西北ヘ五百間
字チサンケ川ヨリ 沖ヘ四百間 可貸渡候条 請書更ニ可差出
此段及通達候也
    明治十五年十月廿八日  茅 部 郡 役 所印
       臼尻
         小 川 幸 松 殿
 
 (7)紛争の結末
 かくして郡役所の丈量取消しを契機に、これまで守りの立場にあった〓小川家は、弁天島を拠点に、臼尻湾での建網開発の基本的な権利さえ危機的状況になってきたので、事を穏便にと黙視するわけにはいかなかった。
 函館の役所・財界に通じる豊かな人脈を挙げて、村網方に対し、また、郡役所に不手際に抗して訴え出た。
 初代の臼尻戸長だった相馬権太郎は、このことに連座したためか任期短かく、家族をのこしてこの地を去り、その後、行方不明となって数年後、横浜で没している。
 このように臼尻村を二分する紛争の時期に、二代目戸長として赴任した篠田順は、豈(あに)図らんや着任以来、情熱をもって村政にとりくむが、徒らに民意は事あるごとに小川派と村網派に色分けられる。
 裁判事件は三年の月日を閲す。この間、訴願の小川幸松は病死し、世は三代幸一郎の代となっていた。
 明治一八年、「公明ノ判決ハ部落(村網側)ノ敗訴トナリ、小川幸一郎ノ利ニ期セリ。」
 村網側は敗訴したことにより裁判費用の一切を負担しなければならなかった。これが後のちまで永く怨恨をのこす因(もと)となる。
 篠田戸長はこう記している。
  「部落ハ素ヨリ一村一家ノ如キモノナルヲ以テ、事解決ノ上ハ、長ク遺恨トスルニ非ザレバ、自然和解シテ互ニ遺憾ナカラシメタリ」と。
 明治二一年、村網側の裁判費用の債権者として、二本柳庄三郎と大坂金七が引きうけこれを立て替えることとなる。この決済は村網場所の貸渡金を以て年々返済し、明治三一年までその歳月を要した。
 かくして臼尻の村網共同網は、境界紛争に明け暮れ、その後始末も年月を要したが、明治三九年に至り、共同網の入札に際し小川幸一郎が落札というめぐりあわせとなった。
 勿論、このときは小川家も三代目の幸一郎の代となり、村人の人望をあつめていた。すべては時代の推移のなかで解決されたともいえる。
 昭和五年、熊谷喜久太郎ほか二名の代表により茅鰮第六八二号の漁業権を取得したが、のち昭和一九年、村社巌島神社に寄付された記録がある。漁業制度の改革とともに村網は閉鎖された。