函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第六編 漁業

第一章 郷土の漁業

第三節 定置漁業

田代式大謀網

 大謀網は、三陸沿岸で発達した。リヤス式の断崖がつづく深い海に、五月から六月にかけて大鮪がやってくる。この鮪の大群を一網打尽に捕獲するのは漁師の夢でもあった。
 東北系定置網の創始は、文政一二年(一八二九)、陸中船越村の田代角左衛門が、永年辛苦して試みに成功した。現在の岩手県下閉伊郡山田町船越字田の浜の人である。
 角左衛門は天明五年の生まれで、生家は船越の三家衆とよばれ廻船問屋や小舌網を経営していた。
 二六歳で、吉里吉里村の廻船問屋前川善兵衛の女エイを娶った。前川家は「いろは」四八艘の帆船をもつ豪商であった。
 五〇貫もの大鮪が春秋、群をなして湾内深く回遊するのをみていた角左衛門は、陸前遠島付近の建網に興味をもった。
 貝や海草などの磯漁を主としている漁師の生活のためにも、漁場開拓に意欲を示した。奥州の廻船問屋が信仰する石巻の住吉大明神の参詣の折、金華山の黄金神社に詣でた角左衛門は、牡鹿半島から十五浜の鮪の建網をみて歩いた。
 建網は湾の岬の内側に張りたて、垣網は身網にむかって左側につけられていた。岬の上に魚見の台があって、二人の岡見が魚群を見張っている。魚が網に入ると笠を振って合図をおくり、網口に待機している引立船が、合図で海中に沈めてある引立網を引きあげ網口を閉じて魚群の逃げるのを防ぐのである。
 テンヤ(網小屋)にいる漁夫たちは、知らせをうけると団平船を漕ぎだし、網を起こして鮪を捕獲するのを見聞して帰った。
 角左衛門は翌年、再び牡鹿半島をたずね、自から経営するため漁場を求め、浦々を踏査して文政元年(一八一八)牧ノ崎の鬼島に網をたてた。
 経営はよい番頭を得ることである。漁労に熟練した大謀(漁労長のことをいう)を得ることである。角左衛門が見出した大謀役は、大原の平兵衛という漁師だった。
 それから三年目に、角左衛門は新しい網型を考えて、牧ノ崎の沖ノ島(遠島)二斗田の鼻に網をはった。改良網は、明治の大謀網と同じような楕円形で、それまでの囲網に底をつけ、魚捕の部分は右側の奥にあり、藁の織網をつかった。
 羽口に近いほど目のあらい藁網をつかう仕立方であった。身網の長さ一〇八尋、網口の広さ二三尋で、ここには引網をつけ引きあげる。垣網は網目一尺、長さ二一五尋あったという。
 家業をよそに他国の海の建網漁につぎこんだ田代家の財力はおびただしいもので、遂には妻の里方や大槌通りの大名主里飯忠兵衛の援助が大きかったという。
 角左衛門はさらに改良して囲網の全部に底をつけ、引立網は二枚ロープをつけて垂れさげ、着物のオクミがかき合うような方法にみたてた。
 碇も重量とすわりをよくするため、藤蔓の籠に岩石をいれる新しい試みにした。
 浮子は直径二尺、長さ一間から一間半の杉材をつかい、浮力を増すために胴をほりぬいて固定させるなど細かな部分まで改良した。
 こうして、鮪の漁獲に新しい考えをとりいれた田代型建網が出来あがった。角左衛門の発明した鮪の建網を田代網といい、沖の島を田代島とよんだという。
 のち、角左衛門は陸前国桃生郡十五浜村(現在の雄勝町のうち)に漁場をうつし、雄勝湾の波板、分浜の側と白葉崎から小島にいたる東側の数か所の漁場を経営した。大須崎は浪も荒く潮の流れも速いが、良漁場であったのでこの海に挑戦した。
 角左衛門は、陸前の網場を平兵衛や番頭にまかせて、南部領内に適地を求めて下閉伊郡から下北勝野沢九艘村まで探査したという。
 九艘に角左衛門を祀った田代大明神という小祠があるときき訪ねた。立派な弁財天は祀られていたが、田代大明神のことは土地の人も漁業関係者も今は知らず、町教育委員会にもその史料はのこっていなかった。
 故郷にかえり宮古湾戸ノ崎一丁目に漁場をひらいたのが文政九年の初秋、角左衛門四三歳であったという。
 文政一〇年(一八二七)、角左衛門は鮪建網の益金を藩に献上した。この功により南部藩主に招かれて伺候した。城内の泉水池に鮪建網の模型を置いて御覧に供した。下城の折、藩主より御佩刀一振、御紋付麻裃一着、御紋付御扇子一対、黒松大鉢盆栽一鉢を拝領したと記録されている。角左衛門は千石取りの格式の建築を許されて、自宅に土塀をめぐらしたという。
 宮古湾の建網漁法は、角左衛門によって発展し、田代型建網は広く普及して鮪漁に賑わった。
 戸ノ崎一丁目の建網は、湾内に入った鮪が外洋に出るのを捕獲するため、北にむかって四五度の角度でたてこみ、垣網一七〇間、身網の長さ一〇〇間、幅四〇間、羽口三〇間の大謀型だったという。
 角左衛門は、天保二年、藩庁から二人扶持を給され、浦肝煎を命じられた。天保六年(一八三五)、五一歳で歿した。
 田代家の繁栄は、明治二九年の三陸津波まで続いた。
 宮古市中央公民館を訪ね、花坂蔵之助館長から尻屋崎の尻労に田鎖丹蔵が漁場を開拓した碑があるときいて尻労(しつかり)に大謀の碑をたずねた。
 東通村から猿か森への途中、十戸ばかりの村落があり上田代という神社の名に何か心ひかれてお詣りをした。
 尻労漁協は組合員一二七名で定置三か統、小型三か統あった。ちょうど尻矢岬の山陰にあたる断崖の下に小さな漁港があって、鮭の漁でにぎわっていた。
 大謀の碑は立屋(たつや)の龍神さまとよばれ、一月一八日が例祭で尻労土地共有会の人たちが祀っていた。漁港を見おろす崖の高台の上、杉の林の奥ふかく朽ちた鳥居があり、小さなお堂があった。お堂の前には、高さ約二メートル、幅約一・五メートルの赤みの自然石に荒彫りした碑がある。土地の人は万本(まんぼ)の碑と呼んでいる。明治三一年、田代網による宮古の福士喜伝治が大網を小歌沖にたて、苦心をつづけ明治三五年大漁に大漁を累ね、五月一日万本の慶を祝した。これを本郡大謀の元祖として、征露二年というから明治三八年五月記念の碑を建立したと刻されていた。碑文に鮪の文字は刻されていないが、大謀といえば鮪網だったという。
 田代角左衛門の足跡をたずねてその確証は得られなかったが、田代型建網の伝播を本州の最北端に仰ぐことができた。
 その前海津軽海峡を渡って田代型大謀網は北海道へ伝えられたのである。
      (資料協力 岩手県山田町 田 代 ひろ子)
      (参考文献 宮城雄太郎著「日本漁民伝上巻 昭和三九)