函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第六編 漁業

第一章 郷土の漁業

第二節 鱈つり漁業

明治以後の鱈つり漁業

 東風をヤマセといい、曇りか雨、ときには大嵐となるので、出漁をみあわせる。
 親方の機嫌の悪いのを、漁夫たちは「親方ヤマセだ」とたとえて言う。
 冬の沖で漁をしていてヒカタ(南西の風)かタバ風(西北の風)に変わる(カワセル)と、海は暴風が吹きまくり大時化になり、大荒れで釣船が遭難などの危険にさらされることが多かった。ヒカタの風は「人殺(と)る風」といわれて怖れられた。
 南(風)が吹くと古部沖から磯谷へ流されていってしまう。 陸(おか)が吹かずに、沖が強く吹く。
 南西「ヒカタ」の風は、夕立になれば止むといわれている。
 
 (2)鱈つり稼業
 大正の頃、尾札部村の鱈釣り稼業は、尾札部四隻、見日七隻、木直一四、五隻、古部一一、二隻、川汲は春期のみ六、七隻であった。
 昭和七、八年、臼尻村では、持符三人乗三隻が、発動機船四、五人乗で一七、八隻操業していた。
 発動機船一隻の漁獲高は、最多で約二〇梱(こおり)、最少七、八梱。平均一四梱。持符は一隻で一二、三梱であった。
 一梱は二四貫入で、原料が大鱈で八束、中鱈は一五、六束、小鱈は二二、三束。価格はおよそ一円に付二貫として、一梱一二円である。
 鱈釣り漁は、北国の漁民にとって冬の海での生命がけの収入源であった。
 冬の深海に回避する鱈の大群を追って、漁師たちは雪の海に出漁した。
 雪ふる沖合の海上に一二日の釣り漁を稼業とした。一〇月一五日から旧の正月までが秋鱈一期で、一月から三月までは春鱈といった。
 長さ三五尺(一〇・五メートル)、幅四尺五寸(一・三五メートル)の持符(モチツプ)という小舟で、三人乗組の仲間(なかば)商売(共同稼業)で、合乗り(乗り組み仲間)が休むときは四分一(しぶいち)といって替人、助っ人を出すきめあいだった。
 精密な気象予報もない頃だったので、羅針盤ひとつを頼りに、雲を眺め、山や岬で舟の位置を判断して、風にまかせる帆かけ舟での操業であった。鱈釣り漁は、正に大自然との人間の闘いであり、所詮、大海に浮かぶ木の葉同然であった。だから鱈釣り舟の遭難の悲劇は枚挙にいとまがなかった。
 「鱈釣り舟に親子で乗るな」という漁師の禁忌(タブー)は、厳しい鱈釣り漁に立ち向かう貧しい漁民の一家全滅の危険を避けるための、ギリギリの自己保全の術であった。それでもなおかつ、親子・兄弟が同乗して、同時遭難する例はすくなくなかったという。