函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第六編 漁業

第一章 郷土の漁業

第一節 昆布漁業

大正・昭和初期の昆布採取

 昭和五年に尾札部村漁業組合の編集した「漁業組合状況」に拠り、当時の昆布採取の概略を記す。
 毎年七月二〇日から昆布は解禁となる。昆布の採取は、すべて組合が選任した三人の大旗持と、一〇人(年代により異なる)の小旗持の合図で開始し、終了する。
 海岸に定めた三か所の地点に三〇尺(約九メートル)くらいの旗竿(柱)を建設して置く。
 昆布採取には、天気と海の透明度と波の静かなことが必要条件である。早朝、大旗持はそれぞれの前海の状況をより適格に判断する。村中の昆布の水揚げと干燥を左右する大事な判断である。
 採取に適すると判断した旗持は、布で包んだ球形の籠を柱の中間まで掲げる。相談玉という。
 他の旗持も好しとすると、それぞれ中間まで掲げる。三つ揃うと合意である。直ちに玉を最上位まで掲げて全漁船に昆布採りの合意が知らされる。玉は即刻降ろされ、白旗が掲がり、海上の小旗持(監視船)が喇叭(ラツパ)を吹奏して採取が開始される。

相談玉

 当日の水揚量や天候の状況で元旗持が判断し、終了の旗が降ろされる。小旗持の喇叭が鳴り、終了の合図で採取を終え、昆布船は前浜へ帰る。
 海羅(ふのり)摘み、銀杏草(みみ)摘みも昆布採取に準じて、組合の許可をうけた鑑札者が採取をする。
 真昆布は一日干(いちにちぼし)が望ましく、好天を待って採取し、乾燥される。このため漁家は、昆布浜に砂利を入れたり、採取の船や漁具の準備を怠らない。よい昆布は、よい昆布場(海産干場)で干燥される。
 昆布の採取はマッカで搦み、捻り採る。ホコの長さは水深によって異なるので、長短のものを積み込む。
 マッカは柴マッカ、天神マッカがある。棹(長柄棒(ホコ))の材はメリケンマツや楢を良材とする。マッカは、ビラカや山毛欅(ぶな)でつくる。木直は杉のマッカを多く用い、臼尻は楢(なら)の芯立ちを用いる。
 磯船には覗きガラス(眼鏡(めがね)という)や鈎(かぎ)などを用意する。
 昆布が残り少なくなると鎌刈りをする人もある。
 昭和四〇年前後に、覗きガラスはプラスチックなどに改良されたが、マッカの形は同様のものを使用している。
 漁家が関心をもつのは、自分の前浜の昆布漁の豊凶である。真昆布のなかでも浜の内、または白口浜と呼ばれていた南茅部沿岸の昆布には七つの区画の印が付されていた。熊ク(大船オ)、臼尻ウ、板木イ(安浦ヤ)、川汲カ、尾札部ヲ、見日ケ(のちヲに一本化)、木直キ、古部フの文字が当てられた。
 製品検査の等級の検査票に、産地別の表示記号がつけられていた。
 明治から大正・昭和の初めまでは、海産物の輸送は専ら海運に頼ってきた。なかでも昆布は、ほとんど船便で函館へ送った。鮮魚は時間を急ぐため、馬で川汲峠を越え市場へ送ったが、昆布は、数量も多く、出荷時期も集中する。昆布の駄送は、数量の少ない限られた輸送の時だけである。山ダシ昆布の語源を、川汲峠を越えて函館の市場へ出したから山出(やまだ)し昆布といったとするのは根拠のないことである。山出しは、他の事物にも一般に用いられる表現である。
 広辞林に、〔山出し〕山から出すこと。初めて都会に来たいなか者。ぽっとで。とある。
 ダシは煮出し汁のことで、鰹・鯖・椎葺などダシはいろいろある。あえて昆布ダシのことだけではない。