函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第六編 漁業

第一章 郷土の漁業

第一節 昆布漁業

明治初期の昆布場

 昆布採りに二又(ふたまた)の捻(ねじ)りが使われるようになったのは、古い頃からである。しかし、昆布が薄生になると、昆布の繁殖は根元からだという説が漁業者の間に広がる。明治の初めすでに、昆布は胞子によって繁殖することが認められていたが、漁村ではなかなか信じられなかった。開拓使は、これを現地で実証するため、明治一一年五月、尾札部村稲荷浜の海面三九〇坪を区画してこれを実証した。
 
    「資料」
   開拓使時代に當り、此二郡に於ける昆布生長の状、昔時に比し衰退の徴ありて、其原因に二説あり。甲は曰く、昔時は竿頭に利鎌を附し昆布の根際(ねぎわ)より刈採(かいさい)せしを以て、年々其宿根より萌芽を生ぜしに、近年は其採取法を變じ竿頭に蟇股状の木を附し、昆布を根と共に抜き取るが故に再び芽を發するに由なし。是れ其生育を、減ずる所以なりと。乙は曰く、昆布は新生にして宿根より發芽するものにあらず。宿根より生ずるは、方言「ガコメ」と称する昆布の一種のみ昆布は、新生より三年を經れば必ず岩石より脱離し、冬季中其岩面より更に新生するものなり。而して昆布減少の因は他に在りうは、方言「ゴモ」と称する海藻の一種水底に叢生して昆布の發生を妨げ或は土砂の岩礁面を覆ふて昆布の根を著る能はざるが故なり。今其例證を挙げんに、根室地方に於て北海の氷塊風濤に漂ひ、海底の岩石に触れ、其の覆ふ所の土砂塵芥を始め昆布の根をも掃除し去ることあり。若し甲者の説にして是ならば其年は、勿論向後其礁面には昆布の生せざるべき筈なるに、事實は全く反對にて其年より殊に夥しき昆布を生ずるを常とす。是れ昆布の根生にあらざる確証にあらずやと。是に於て開拓使は、七重試験場の委員を派出し、實地の景況を調査せしめしに、「ゴモ」の生ずる所は絶えて昆布を見ず。昆布の生ずる處は必ず海底清潔にして岩石浄滑なるより見れば、乙の説、信ずるに足るとの復命を為せり。然れども尚ほ之を確むる為め、明治十一年五月、茅部尾札部村字稲荷濱、海面三百九十坪を區畫し、其中の「ゴモ」を悉く抜去り、海底を掃除し、該區畫内の採取を禁じ置き、翌十二年、委員を派して視察せしめしに、域内は昆布密生し域外は、「ゴモ」繁茂せり。之より該地の漁民は勉めて「ゴモ」を抜除するに至れり。十三年復た委員を派して域内の昆布を採て製造せしめ之を域外のものと比較せしに、品位遙かに佳良にして、其数量も同面積の比較に於て三十倍の多額を収め得たり。由て其事由を詳記し函館支廳管内に告示せり。
                 (北海道水産雑誌 第二二号・明治二八)
 
 海底の岩礁地帯を雑草排除することによって、昆布の繁殖に効果的だということが、函館支庁(のちの渡島桧山)管内に告示している。
 二又(ふたまた)の捻り棒(マツカ)は明治一二年の北海道漁業図絵に、臼尻村の昆布採収具として描かれている。(漁具漁船 参照)
 図絵には、昆布取棒と題名が付けられていて、村々の海や昆布の特性のちがいが漁具にもよく現われている。
そして、重り石が、鉛や鉄の角棒に変わる程度の変化で、昆布の採収具や方法に大きな変容は示されていない。
 しかし、明治二〇年頃まで、マッカは昆布の繁殖に悪い、昆布は鎌刈りが好い、とする漁業者も多かった。
 篠田順の臼尻沿革誌に「二十年ニ至ラバ、従来用ユル処ノ鎌刈ハ、全部廃シテ『マッカ』ニ改メ、之レヲ名(ヅ)ケテ『柴マツカ』『天神マツカ』と云フ」と記している。そして、日帰り採収を禁じたのは、明治二四年であると記している。(漁業組合・参照)

北海道漁業図絵 昆布取棒 明治12年


北海道漁業図絵 昆布取棒 明治12年


北海道漁業図絵 昆布取棒 明治12年


北海道漁業図絵 昆布取棒 明治12年


北海道漁業図絵 昆布取棒 明治12年


北海道漁業図絵 昆布取棒 明治12年


北海道漁業図絵 昆布取棒 明治12年